心がそよそよと風に誘われて泡立ち、清浄な水に洗われて静かに浜辺に打ち寄せるような本。おさかなさんと対話しているような気持ちになれます。
鶴見和子のきっぷのいいしゃべりかた、理知的で潔い。鶴見の歌集は以前、書店で立ち読みした覚えがある。いくつか印象に残った歌があったことを思いだす。でもどういう歌だったのか、出てこない…
この対談は読み終わって清々しい気持ちになれる、とてもいい本だった。だが、引っかかりを感じた部分もある。それは、鶴見和子が柳田国男の言葉を引用して、「四角い言葉、丸い言葉」というくだりだ。
学者は四角い言葉を使う。下町の/地方の/ふつうの人々は丸い言葉を使う。普通の人々も、日常会話では丸い言葉を使うのに、公共空間や改まった場では四角い言葉を使う。
鶴見は自身の言葉がついつい四角い言葉になってしまうことを反省し、「ああ、とっても嫌だわ、こういう言葉」「魂というのは感性、またこれも硬い言葉だけれど、感じとる力なの」と、対談の途中で何度も言葉の言い換えを行う。
丸い言葉がよくて四角い言葉が悪いのか? むやみに理解不能な難しい言葉をふりまわすことにはわたしも確かに嫌悪感を感じるが、四角い言葉を使わなくては語れないこともあるだろう。鶴見の頭の中は常に「知識人対教養のない人びと」という二項対立が埋めがたくあるようだ。彼女が東京山の手のお嬢様だからこそ、水俣の田舎言葉を話す「教養のない人々」の語る言葉に「感動」し、彼らから学ぼうと一生懸命そこへ降りていこうとするのだろう。
その「努力」はわたしのような人間には奇異に映る。大阪という地方の大都市に育った中産階級のわたしは、上流階級出身の知識人鶴見和子と田舎の村の人々との間で自分の身の置き所に苦慮する。わたし自身の立ち位置を決めかねて、居心地の悪さを感じるのだ。
わたしは鶴見和子のひたむきで誠実な姿勢に共感を寄せながらも、どこか痛々しさを感じてしまう。なんでそんな無理をするのだろう、と。彼女は脳梗塞で半身不随になったことにより、水俣病の人々の痛苦が少しは理解できるようになった、と語っている。彼女にとってはありのままの自分では水俣の人々を理解することができなかったのだろうか。どこかに「欠損」がなければ病に苦しむ人の心情は理解できないものなのだろうか。もしそうなら、水俣には健康で豊かな生活を送っている者には想像力の及ばない苦しみがあって、永遠に両者の溝は埋められないものなのだろうか。
丸い言葉に拝跪し始めれば、知性はとどまるところをしらない後退をみる。日常会話の語彙と抽象的思考の貧困さに寄り添うことが果たしてよいことなのだろうか。
ところが、ここで鶴見和子は「丸い言葉を磨いて玉にする」という表現を使ってこの「難局」を乗り切る。学者も作家も丸い言葉と四角い言葉の狭間で引き裂かれて苦悩するのだが、その二つの言葉を橋渡しする営みを鶴見は「丸い言葉を磨いて玉にする」と命名した。
石牟礼道子も同じように語る。「橋を架けたいという願望はあるんです、両方に。非人格的な知性と、いつも魂がどこかに遊びに行っているような情念の世界、その両方に…架け橋を紡いでる、蚕の糸みたいなものを吐いて紡いでいる気がしておりますが、成功しているかは。」(176p)
このくだりを読んで、わたしのひっかかりはするすると解けていくような気持ちになった。彼女たちは一つの答を見いだしている。けれど、その答にも、まだ苦悩は払拭されたわけではない。作家も学者もこの苦悩の中で創作と思索を続けていくのだろう。
ところで、本書で大きなテーマとなっているアニミズムについては、わたしもここ数年、関心が深まりつつある。わたし自身は信仰心を持たないけれど、人知を超えた「神」とも呼ぶべきものの存在を強く感じるようになってきた。宇宙や、空や、風や雲が神なのだと感じる。そこに横たわる究極の美ともいえるような物理の法則や、偉大な力を感じるとき、わたしたち人間は生かされてあるのだと強く感じる。
人の運命や宿命といった、個々人の力では抗いがたいものもあるのではないかと思うし、その一方で、運命は人が自らの力で呼び寄せるものだとも思う。それは人と人が呼び合って紡ぎ出す力だ。そんな思いを少しずつ強く感じるようになってきたときに本書を読んだので、多くの示唆をうけた。特に「魂入れ」や「風土」というキーワードは、鈴を鳴らすように響いてきた。そう、この本にはたくさんの鈴がついていて、どこが鳴るか、どの鈴が読み手の耳に届くか、さまざまに楽しむことができる。
わたしは大学生のとき、ユージン・スミス写真展「水俣」を見たことがある。一枚の写真の前で身動きできなくなり、一人静かに涙を流したことを思い出す。それは胎児性水俣病患者上村智子さんとその母親が入浴している有名な写真だった。
水俣とわたしとのつながりは細いけれど、毎年のように食べていた無農薬みかんを送ってくださった農家とも、引越しのどさくさにまぎれていつのまにか連絡が途絶えてしまった。もういちど細い糸をたどってみようと思う。
石牟礼道子の著作は断片的にしか読んだことがなかった。名著『苦海浄土』も未読である。これをきっかけに改めてきちんと読んでみようと思ったし、最新刊『アニマの鳥』『煤の中のマリア』も読みたい。
------------------------------
言葉果つるところ
石牟礼道子, 鶴見和子著. 藤原書店, 2002.
(鶴見和子・対話まんだら ; 石牟礼道子の巻)