吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2030年ごろかも。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

メモ:『歴史的理性の批判のために』

 この本は電車の中で立ち読むするような類のものではなかったと反省。じっさい、内容も難しいのだが、文体も読みにくくて、上村氏が翻訳しておられるガヤトリ・スピヴァクほどではないにしても、かなり読み進めるのが辛かった。それに序章と第1章はおもしろかったけどだんだんだれてきて、途中はとっても退屈。 目は字面を追っているけれど頭は遙か1万光年の彼方。

 しかしそれでも最後まで読み通した。上村さんは新しい歴史哲学「ヘテロジーの歴史」を打ち立てようとしておられるらしいが、その実態が最後まで明らかにされないままだったので、うやむやにされてしまったような不満感が残る。ヘテロジーとはこの場合、ミクロな歴史とマクロな歴史の融合というぐらいの意味のようだ。その哲学を上村氏は三木清スピヴァクを導き手として構築しようとしている。だが、上村哲学のオリジナリティはどこにあるのだろうか? それが見つけられなかったことが最大の不満か。


 以下、特に序章と第一章について詳しくまとめてみる。


序章 経験の敗北

 取り上げられているのは市村弘正の『敗北の二十世紀』。わたしが全然知らない思想家だが、その市村の文体には「不思議な息づかい」があるという。市村は詩人の吉増剛造について同書の中で言及している。その様子を上村忠男は「世界の応答に耳を澄ましつつ、応答する世界の声を形象性あざやかな言葉に分節化していく詩人・吉増剛造と、その詩人の息づかいに合わせて呼吸する思想史家・市村弘正のしなやかな文体の呼吸法」だと絶賛する。

 さらに一人、導きの人はヴァルター・ベンヤミン

 ここで上村が言いたいことは、「経験の敗北」であり、「敗北の経験」ではない。ベンヤミンにしろアドルノにしろ、戦火を生き延びた帰還兵の記憶のトラウマについて語るとき、それは「敗戦の記憶」ではなく、記憶そのものが経験されえないということである。

 市村の『敗北の二十世紀』は、「「物語」の不可欠と不可能とを顕わにした時代としての二〇世紀という規定」をしているらしい。

 物語能力をこえて忘却へいざなうほどの破壊と消滅の生起。理解力をこなごなに砕く表象不能な出来事の出現。砕かれた記憶の土台の縁に、かろうじて記憶の切片が貼りついているような事態。そのような物語不能な状態に耐えぬくためにこそ必要不可欠な「廃墟」からの物語。--ブレのほどは明らかであろう。市村が「経験の貧困化」に代えて「経験の消滅」というとき、そこでは疑いもなく、アーレントが『全体主義の起源』のなかで巧みにも「忘却の穴」と形容したナチス・ドイツ絶滅収容所のことが思い浮かべられているのである。(p22)

 上村は市村弘正の『敗北の二十世紀』を絶賛し、さらには『この時代の縁(へり)で』を高く評価する。ということなので、要は市村のこの二冊を読めばいいようである。

 『この時代の縁で』は市村と吉増剛造との対談であり、映画「ショアー」が取り上げられている。「ショアー」は長い長いドキュメンタリーなのでわたしは恐れをなして未見である。だが、このアウシュヴィッツを生き残った人々の証言映画である「ショアー」、いつかは見なければ、と思う。

 ショアーを監督したランズマンはサルトルの秘書を経験した人物で、「ショアー」の証言者たちにも「生きられたことがら」(サルトル『家の馬鹿息子』)そのものをふたたび演じてみせることを要求している。


 「ショアー」をめぐる市村・吉増対談を長々と引用したあとで、上村は次のようにまとめに入る。

「経験」こそは古来<歴史=物語>の糧であると見なされてきたのではなかったか。ところが、その「経験」の蓄積のうえに物語を紡ぐことのできた時代は、すでに遠い。いまではもう、物語は「廃墟」からの物語としてしか可能ではない。(p34)

 <記憶>と一体化したかたで<歴史>が存在していた時代は、やがて過去のものとなる。近代国民国家の形成期には、人びとの生活からはすでに記憶の環境が奪われつつあり、これにともなって<歴史>もまた<記憶>との一体性を喪失していく。そして、そこでは「記憶の環境(milieux de memorie)」に代わって「記憶の場所(lieux de memorie)」が登場することとなる。記念碑や文書資料館、等々である。かつて<記憶>は<歴史>にとっての典拠であった。その典拠であった<記憶>を、いまや<歴史>は大賞と化す。そして、人びとの日常生活のなかに根づいている集合的記憶のかずかうを蒐集して回り、それらをキケロ的=ルネサンス人文主義の伝統のなかで開発され錬成されてきた記憶術にならうかのようにして、さまざまな形態の<場所>に貼り付けることによって保存し、もってナショナル・アイデンティティ形成のための手立てとなそうとするのである。(p36ー37)

 映画「ショアー」は、「記憶の場所」からではなく、「記憶の非場所」からの歴史の問い掛けという試みをなしている。
 

第1章 アウシュヴィッツと証言の危機

 取り上げられているのは
 アンナ・ハーレントの『全体主義の起源』『イェルサレムアイヒマン
 
 そして、それらおよび映画「ショアー」を論じた高橋哲哉の「記憶されえぬもの 語りえぬもの」(『岩波講座現代思想』第九巻)

 『声の回帰 : 映画『ショアー』と「証言」の時代』ショシャナ・フェルマン著 ; 上野成利, 崎山政毅, 細見和之訳.太田出版, 1995(批評空間叢書)


 「ショアー」のランズマン監督はユダヤ系であり、彼がなそうとしたホロコーストの証言・記憶の共有化が、イスラエルの特権化へと横滑りする危険性をもっていることに注意すべき。

 プリモ・レーヴィの証言が孕むアポリアについては、アガンベンが『アウシュヴィッツの残りもの』で考察している。(「レーヴィのパラドクス」→アガンベンを読むこと)。

 上村忠男は高橋哲哉を評価しつつも、高橋がフェルマンを誤読していると批判している。これに対して高橋哲哉が『証言のポリティクス』の中で反論しているらしい(猿虎(永野潤)さんのブログ参照)。http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050206#p1 続きを読む