吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2030年ごろかも。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

おくりびと


 初めて納棺の儀式を見たのは5年前に義妹が亡くなったときだ。そのとき、湯灌の儀式というものを初めて間近で見た。この映画を見ながら思い出したのは業者の手によって義妹を納棺してもらった、そのときの様子である。確か、「よしなしごと」に冠婚葬祭の市場化について書いたと思ったのだが、思い出せなかった。やっさもっさして古い記事を見つけ出し、ブログに復活アップした。
「死をめぐる商売」
http://blog.goo.ne.jp/ginyucinema/e/911148a1e67b7d50967e6798435e25e7 
もう5年前の記事なんだ(しみじみ)。5年前、湯灌・納棺という儀式をプロの手に委ねることに違和感を感じて「資本主義もここまでゆきついたのか」と批判的に書いたものだが、この映画を見てイメージが変わった。

 納棺師という職業は歴史が浅い。ついこの前まで(戦後20年ぐらいか)、湯灌は遺族の手で行われていた。それがいつの間にかプロのサービスへと変化した。劇場用パンフレットによれば1969年頃に函館で漁船が沈没する事件があり、30以上の遺体を納棺する際、地元の花屋が手伝ったのが始まりという説もあるという。

 5年前、プロの手によって淡々と行われる湯灌に対してわたしはどこか職業的な手際のよさ(よすぎる)ものを感じたものだが、この映画ではその手際が芸術的にまで昇華して描かれるため、むしろ厳粛な気持ちになり、背筋が伸びる思いがする。

 「おくりびと」とは納棺師を指す。人は誰もが必ず死に、いつか必ず「おくられる」立場になる。おくるひと、おくられるひと。送る遺族と送られる死者の間に立ってその儀式を執り行うのが納棺師だ。主人公小林大悟は東京でオーケストラのチェロ奏者であったが失業して、妻と共に郷里山形に帰ってくる。そこで大悟が就いた新しい職業は、旅行会社と間違って面接を受けた「納棺屋」の社員。ベテランの社長の下で大悟はとまどいながらもいつしかプロとしての職業意識に目覚めていく。だが、死者を扱う仕事に対する偏見は根深い。最愛の妻にも自分の職業を告げることができず悶々とする大悟だった…

 これは死を巡る仕事を真正面から取り上げた数少ない作品だ。葬儀といえば伊丹十三の「お葬式」があるが、あの「お葬式」の主役を演じた山崎努が今回は納棺師の社長役。この社長がフグの白子を網で焼いて湯気の立つ熱々を実に美味しそうに食べる。このあたり、伊丹作品へのオマージュともとれる。伊丹監督も食べることが大好きな監督だった。「たんぽぽ」など、食をめぐる作品が印象深い。

 食べることも死ぬことも、わたしたちは避けることができない。生き物の死がなければわたしたちは生きていくこともできない。「おくりびと」を見てその当たり前のことに改めて気づかされる。死んだ生き物を食べてわたしたちは生きる、しかもその死んだ生き物が実に美味いのだ、困ったことに。この台詞が巧い。この映画は脚本がいい。含蓄に富み、死について様々な思いを想起させる箴言とも言えるような台詞がぽんぽんと登場する。しかも、その台詞を語る役者たちがまた上手い。

 湯灌・納棺という儀式には日本的死生観が反映している。死者を生きているときと同じように扱う、いや、生きているとき以上に美しく見せることの意味は、死者が「あの世で生まれ変わる」ために必要なのだ。湯灌にしても、身を清めてあの世へ行く。あの世へ行く門番が焼き場の職員でもある。納棺師にせよ火葬場の職員にせよ、死にまつわる仕事は忌み嫌われることが多いのではなかろうか。地方によっては、死者を焼く仕事に就く者を蔑称で呼んで差別したということを25年以上前に聞いたことがある。

 そういう意味で、この映画は、誰もが必ずいつかはお世話になる「納棺、葬儀、火葬」という人生の最後を司る人々の縁の下の力持ちにスポットライトを当てた画期的な作品なのだ。このレビューの冒頭、葬儀の市場化について違和感を感じたと書いたが、一方でこの映画の主人公小林大悟のように、納棺師という職業に意義を感じてプロとしての矜恃を持つに至る姿を見ていると、どんな職業でもやはりプロとして凛とした仕事をしている人は美しいと素直に感動できる。大悟が遺体に心を込めて接し、装束を着せつける場面の深閑として美しいこと! たたずまい、指先にまで行き届く細やかな神経、衣擦れの音、すべてが端正に整えられ、「死」というものの厳粛さを実感させる。と同時に、腐乱死体を納棺するという、「やりたくない仕事」も引き受けねばならない納棺師のつらさもまた迫ってくる。

 死は厳粛でもあり醜いものでもあり、それは遺された人々の心構え一つで変わってしまうものなのだ。だから、「死」を考えることは「生」を考えることであり、納棺や葬儀という儀式は死者のためにあるのではなく遺された者達のためにあることを思えば、まさに人生の最後に見えてくるものは人と人との関係性の濃淡である。死者を美しく飾りたいという願いは遺族のものであり、そう願うのは愛ゆえ。遺族の愛を受け止めて納棺師はその愛を儀式の形で昇華させる。死者の生前の人間関係がすべて凝縮して現れる葬儀の場こそ、わたしたちはそこで悲喜劇を見ることになる。

 ところで、義妹の葬儀のときの湯灌のような、全身シャワーや洗髪のような儀式はこの映画では行われなかった。土地柄のせいなのだろうか? 土地柄と言えば、この映画は冬から春へと移り変わる山形の風景も美しい。大悟と幼い頃に彼を棄てた父との情愛、葛藤というドラマはありきたりで結末まですべて予想通りなのだが、それでもやっぱり泣かされた。死について考えさせられる、静かな感動に満ちた映画。身近な死者を送った人なら必ず琴線に触れるものがあるだろう。


 ネット上では広末涼子が大根だという評がいくつもあったが、わたしはそうは思わなかった。固い演技がかえって世間知らずのお嬢様の雰囲気を地のままにかもしだしていて、この映画には合っているように思う。いい味を出しているのは余貴美子であり、相変わらず美味しい役をもらっている笹野高史だ。脇がいいので、映画全体が締まっている。

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おくりびと
日本、2008年、上映時間 130分
監督: 滝田洋二郎、製作: 信国一朗、脚本: 小山薫堂、音楽: 久石譲
出演: 本木雅弘広末涼子山崎努余貴美子吉行和子笹野高史杉本哲太
峰岸徹