
見応え十分な作品と感じたのだが、見終わってどことなく不満も残る。戦後のユダヤ人たちの生き様をもう少し追ってみればどうだろう? 彼らはナチ協力者として告発されなかったのか? 朝鮮人BC級戦犯のことを思えば、収容所のユダヤ人達のナチスへの協力はどのように断罪されたのか、あるいは道義的責任を問われたのか、興味が湧く。
ナチスの紙幣贋造計画=ベルンハルト作戦は終戦間近の1944年に開始された(映画ではそのように思えたが、原作本によれば贋造はもっと早くから始められていた)。ポンド紙幣を贋造することによってイギリス経済を混乱に陥れ、さらにドル札の贋造によりアメリカ経済を混乱のるつぼにたたき落とす。そのための秘密工場はドイツ国内ザクセンハウゼン強制収容所の中に造られ、担当したのはユダヤ人印刷技術者たちだった。強制収容所で死を待つしかなかったユダヤ人印刷工たちはいきなり「好待遇」の施設へと移送され、柔らかなベッド、新しいシーツにくるまって眠ることが許され、囚人服ではなく背広の着用(といってもそれはユダヤ人たちから剥ぎ取った古着なのだ)を許される。シャバでは犯罪者だった贋札作りの名人サロモンもここでは責任者として優遇されている。ロシア系ユダヤ人のサロモン(愛称サリー)は絵の才能があり、その才能を活かして収容所の中でナチスの将校の肖像画を描いて生き延びていた男だ。
サリーの関心事はもちろん<生きていること>。生きて終戦を迎えることだ。収容所の中のユダヤ人たちの望みはそれしかなかったことだろう。もはや死を目前にしたユダヤ人たちは「ムスリム」と呼ばれる無気力状態で人間の尊厳が奪われていたが、ベルンハルト作戦に従事させられたユダヤ人技術者たちは収容所の中の特権階級とも言える状態に置かれた。
ナチスの作戦に協力するユダヤ人たちの中には反目が生まれる。ナチスへの協力は終戦を遅らせ同胞達への裏切りになると言いつのってサボタージュを決め込む若いブルガーがいるかと思えば、「正義のためになんか死ねるか」とブルガーに詰め寄る男たちもいる。偽ドル札の製造が遅れていることにしびれを切らせたナチの責任者ヘルツォークは、期限までにドルが贋造できなければ見せしめに5人を処刑すると宣告した。その期限までもう時間がない……!
さて、ここでちょっと原作本について言及したい。原作は映画の主人公サリーではなく若い社会主義者ブルガーの著作による。ところが、原作を読んでわかることは、原作者ブルガーが社会主義者ではなく、単に収容所を出たい一心でいろんな工作を労した一人のユダヤ人であることだ。
原作本はブルガー本人が直接体験したこと以外の出来事も細かく描かれていて、ベルンハルト作戦の行(くだり)に来るまでに160ページ以上が費やされている。で、ここまで読んで気づいたのだが、原作本は映画の原作というよりは原案であり、映画にとっては参考書程度の扱いしかなかったのではないか。ブルガーの人物像も本人の手記と映画ではずいぶん違うし、何より映画はサリーを主役に据えたことでドラマ的な膨らみを生んだ。せっかくの画家の才能を芸術方面には活かさず、「絵を描くより儲かるから」という理由で偽札作りに励んでいる犯罪者サリー、だが彼は自分の身が危ない収容所の中でも最後は仲間を守ることを決意したし、終戦直後の虚無的な行動にも惹かれるものを感じる。
一方、映画の中では正義の人ブルガーはその正義感を発揮して収容所仲間の命を危うくする。ここでは何が正義か不正義かが判然としないのだ。冷酷なナチスの贋造担当将校にしたところで、意外とリベラルな面を見せたり、戦争さえなければふつうの優しい家庭人だったであろうに、と思わせる。
というわけで、原作はこの事件に関連した様々な事実を押さえるにはいい参考書となるし、写真や図表が豊富に挿入されていて興味深い。また、ビルケナウ収容所からの脱走者の描写は手に汗握るたいへん面白い読み物になっている。ただし、著者ブルガーがいちいち出典を明記していないため、たとえばガス室に送られた囚人たちの最後の姿なんてどうやって知りえたのか? という疑問が残る(巻末に参考文献一覧の表記はある)。彼の直接の体験と調査による事実の掘り起こしとの区別がつかないのだ。提示されている資料も出典が明らかでないものが多く、史料的価値には疑問符が付くのが惜しい。
とはいえ、映画に詳しく描かれなかったエピソードのうち、原作が取上げていて興味深かったのは、工房内でたびたび開かれた演芸会の模様だ。これまた強制収用所の中でそのようなものが開かれていたというのが驚きだが、囚人と親衛隊員たちが一緒になって笑い楽しんだというから二度驚く。さらに、偽札作りに携わった囚人たちの芸達者ぶりに三度驚く。ユダヤ人は一芸に秀でている者が多いとは思っていたが、まさにその通りだ。そしてもう一つのエピソードは戦後になって行われた証拠品の引き揚げ作業。敗戦直前にベルンハルト作戦の責任者クリューガーは証拠となる書類や贋札、金、外貨などを大量にアルプス山中の湖に沈めた。1959年と1963年にその引き揚げ作業が行われ、さらに1990年代になって著者ブルガー立会いのもとでアメリカのBBC放送が引き揚げ作業を行った。元ナチスの妨害があったというその様子もまたスリリングだ。
原作よりも映画のほうが遥かに秀逸な人間ドラマを描き上げた。原作は読まなくてもいいから映画はぜひご覧あれ。
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DIE FALSCHER
ドイツ/オーストリア、2007年、上映時間 96分
監督・脚本: ステファン・ルツォヴィツキー、製作: ヨゼフ・アイヒホルツァーほか、原作: アドルフ・ブルガー『ヒトラーの贋札 悪魔の工房』、音楽: マリウス・ルーランド
出演: カール・マルコヴィクス、アウグスト・ディール、デーヴィト・シュトリーゾフ、マリー・ボイマー、ドロレス・チャップリン