真崎守(まさき・もり)という漫画家の存在を知ったのは学生時代だから、1978~80年ごろか。「共犯幻想」は夢中になって読んだ作品だ。久しぶりに手にしたコミックの奥付には「1974年第1版第1刷 1977年新装1版第2刷」とある。わたしが読んだのもこの刷だろう。
20年ぶりに、「舐めるように読んでください」という言葉を反芻しながら、吸い込まれるように貪り読んだ。色も音もない紙の世界でこれだけの表現ができるのだから、漫画家の想像力と創造力には圧倒される。映画のようなコマ割、暴力場面のすさまじさ、縦横に広がるイメージ空間、音まで聞こえてきそうな迫力に、改めて漫画の持つ力を感じる。
だが、昔と違って、登場人物たちと自分の間に距離を感じてしまうのだ。主人公たちは高校生、今やわたしはその親の世代。彼らの苦悩を若者の苦悩としてではなく、今の私の心情に引き寄せて読んでしまう。そもそも、とても高校生が語っているとは思えない、深淵に迫る台詞の数々。
そして、ここにさまざまに語られるコミュニケーションギャップの問題が胸を突く。「人は自分の体温を一人で知ることは出来ない」という<事実>の前に、改めて呆然と立ちすくむ思いがする。
過去は自ら選び取るもの。幻想であり、嘘である過去。しかしそれは、<わたし>が選んだ過去なのだ。選び取られた過去に拘泥し、そこを出発点に共犯者達が心を寄せ合う。とても今の時代に求めることの出来ない<連帯感>だと、切なくなる。
だが、定年間近の刑事が、若者達の造反に心を乱され、壊れていく様子は、嘘くさい。あれはあり得ない話だ。そんなナイーブな大人がいるなら、お目にかかりたいものだ。わたしたち大人はもはやナイーブには生きていけない。悪知恵もたくさん身につけた。失うものも多い。打算と利己主義で生きているようなもの。
この漫画を読んで、失った時を虚空の中に掴むような空しさと恥ずかしさと寂寞感を感じるのは、わたしが年老いたという証左だろうか。