吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

拳と祈り 袴田巖の生涯

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 本作は10月9日に冤罪が晴れて無罪が確定した元死刑囚、袴田巌の生涯を追うドキュメンタリーである。まさに時宜にかなった公開といえよう。

 冒頭、袴田が警官から逮捕状を読み上げられる声が流れる。袴田巌30歳。彼は観念したかのように投げやりな応答をして、逮捕状を「能書き」だと吐き捨てるように言う。「犯人でない者を犯人にした」とも。

 そして47年7か月後の場面へと飛ぶ。2014年に再審開始が決定し、彼は釈放されたのだ。しかし、完全無罪が確定するまでそこからさらに10年の年月が必要だった。今年の無罪確定時に袴田は88歳になっていた。

 本作の監督笠井千晶は地元テレビ局のディレクターとして袴田事件の取材を始めた2002年から22年間、カメラを回してきた。弟の無実を信じて支援のために生涯を捧げてきた姉・袴田秀子の密着取材を続けているのである。

 一審の死刑判決を書いた裁判官・熊本典道が2007年になって「袴田巌は無実である」と告白して世間を驚かせた、その場面だけではなく、熊本元裁判官が袴田に面会を求めて拘置所へ赴く場面もカメラは捉えている。熊本裁判官は袴田事件で意に反して死刑判決文を書いたことに耐えられず、判決の7か月後には裁判官を辞めていた。この後彼が酒浸りになって苦悩する日々は、映画「BOX 袴田事件 命とは」(高橋伴明監督、2015年)というドラマとして映画化されている。

 そしてこのたびのドキュメンタリーでは、事件や裁判の経過は最小限に控えられ、袴田巌の生涯を振り返り記録することに重点が置かれている。彼が殺人犯にされる前の、ボクサーとして生きた青年時代の写真や証言によってその人生を彫り進め、2014年の釈放後は、姉秀子との日常生活に迫る。袴田は拘禁反応と呼ばれる精神疾患により自らを神と呼ぶなど、意思の疎通ができない部分もあるが、その後も再審のための闘いを続けていく。

 彼は死刑囚というスティグマによってしか語られないことが多いが、ボクサーとしての夢を育てていたこともこの映画ではしっかり描かれている。袴田の、ありえたはずの生涯へも心を馳せる力作である。

 袴田巌とは何者であったのか。その88年の人生を過去の記録映像も駆使して積み上げていく本作は、冤罪が一人の人間だけではなく周囲を巻き込んで彼らの人生を破壊していく恐ろしさを知らせてくれる。

 この映画の上映時間159分を、人によっては長すぎると感じるかもしれない。しかし、たった159分である。袴田が無実の罪で逮捕され死刑囚として生きた年月の58年52日と比べてどれほどの長さであろうか。58年52日は365日×58年+うるう年15回+52日=21,237日。それは509,688時間である。実に30,58万1280分ではないか。

 そして忘れてならないのは4人の尊い命が失われているという事実だ。彼らを殺めた犯人はいまだにわからない。冤罪という権力犯罪の罪深さに暗澹たる思いが募るが、カメラがついに回るのをやめる時が来たことを私たちは知っている。劇場公開に合わせて、映画の最後に「袴田さんの無罪確定」というテロップが追加されるのだ。その文字が読めることを励みに劇場に行こう。(機関紙編集者クラブ「編集サービス」2024年10月号に掲載した記事に追加)

2023
日本  Color  159分
監督・撮影・編集:笠井千晶

 出演:袴田巖、袴田秀子

音楽:Stephen Pottinger
ナレーター:中本 修、棚橋真典