吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

くじらびと

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 映画館の大きなスクリーン会場なのに、誰もいない。よもやの一人観客か!と絶句しそうになったところ、予告編の途中でシニア男性が一人入ってきたので、やっと観客は二人になった。

 で、これは大スクリーンで見たのが正解の、音響も素晴らしい迫力の作品だった。どうやって撮ったのかと不思議に思うほどの臨場感だ。

 インドネシアの小さな島で漁労によって生活する人口1500人のラマレラ村を、写真家の石川梵が30年にわたって取材したその成果がこの映画だ。鯨漁の舟に同乗して写真だけではなく映像を撮影し音を録る、というのは気の遠くなるような作業なのだが、小さな船に石川が乗って間近にカメラを向けて撮影しているその迫力は半端ない。ここに至るまでにはどれだけの時間がかかっただろうと想像するに余りある。カメラを抱えた他所者ははっきり言って邪魔以外の何物でもないはずだ。しかし、石川は舟に乗ることを許されている。ほとんど余地のない小さな舟なのに。30年をかけて得た信頼の賜物だろう。

 かつては完全に手漕ぎだったというその舟に、今では船外機(モーター)が付けられている。鯨を捉える方法は、昔ながらの銛(もり)を手で繰り、舟から飛び掛かって鯨の急所に刺すというものだ。1突き目が成功すれば、他の舟から銛手が出て2突き目の銛を刺し、こうして何本もの銛が鯨に刺さる。鯨は真っ赤な血を海に流しながらのたうちまわって何時間も苦しんで死ぬ。死ぬときは恐ろしい目をして涙を流すという。漁師も命がけであり、互いの命をやり取りしての壮絶な闘いをスクリーン越しに見るわたしは、ただ茫然とそして何か尊いものを見たような恍惚とした思いに浸る。

 そんな豪快で勇壮な鯨漁は、実はめったにお目にかかれないのだ。年に10頭も獲れれば村人全員が飢えずに済むという。必要以上に鯨を獲ることはない村人たちの生活は実にシンプルだ。鯨が取れないときはマンタやほかの魚を獲って、物々交換の市場で米や野菜に換える。ラマレラ村のある場所は火山灰地なので農作物が育たないのだ。

 漁を捉えるカメラはドローンも活用され、水中カメラも駆使して、迫力満点である。息を飲むほど美しい空撮の映像は絶対に映画館の大スクリーンで見てほしい。鯨の解体場面も迫力たっぷりで、その分け前の方法もまた緻密に決まっていることに驚く。

 この映画では一つの家族に密着取材を行い、特にその一家のまだ小学生のエーメンという少年にカメラが向けられる。彼は将来、ラマファ(銛を突く人)になりたいという。大きな瞳に明るい笑顔が映えるエーメンはどこかわたしの弟の幼いころにも似ていて、親近感が湧く。

 村の人々の質素でエコロジカルな生活を見ていると溜息が出そうだが、そんな生活はラマファの腕にかかっているわけで、どうしても男たちの労働にばかり目が行くことになる。漁果は村人全員で分けるのだが、女たちはどんな仕事に就いているのだろうか、と興味がそそられる。漁船も手作りで設計図もなく、森から木を伐りだしてくるところから始まって見事に組み立てられていく様子は圧巻だ。

 私が小学生のときの給食で一番好きだった鯨の竜田揚げ、また食べたい! しかしこうやって確かに残酷な殺され方をする鯨を見ていると、可哀そうになるのも無理がない。だからこそ、村人たちは必要以上に鯨を獲ることはないし、骨以外はすべて活用する。捕鯨もまた文化なのだということを痛感する見事な作品だ。絶対に映画館でみてほしい。

くじらびと 
2021
日本  Color  113分
監督:石川梵
エグゼクティブプロデューサー:広井王子
プロデューサー:石川梵
撮影:石川梵、山本直洋、宮本麗
編集:熱海鋼一、蓑輪広二
音響:帆苅幸雄
音楽:吉田大致
録音:ジュン・アマント