吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

リンドグレーン

https://eiga.k-img.com/images/movie/91662/photo/b7a45d26f7345fb7/640.jpg?1570002135

  「やかまし村の子どもたち」の原作者、アストリッド・リンドグレーンの若き日を描いた伝記映画。実はわたしはリンドグレーン出世作の「長くつ下のピッピ」を読んだことがない。そもそも子どものころに絵本をほとんど読んでいないし、児童文学もあまり好きではなかった。そんな子供だましの本は好きじゃなかったのだ、おませだったから。もちろんいくつもの名作は読んだけれど、「長くつ下のぴっぴ」には惹かれなかったのだろう、読んだかどうかも不明だ。

 この映画はそのリンドグレーンリンドグレーンになる前の、つまりリンドグレーンと結婚する前の十代後半から二十代半ばのことを描いている。アストリッドは18歳のとき、友人の父親が経営する地方新聞社に雇われることになる。編集長兼経営者は若くして才能の見いだされる彼女を高く評価し、いつしか二人は歳の差を超えて愛し合うようになる。しかし、妻帯者である編集長とは簡単には結婚できない状態だ。にもかかわらずアストリッドは妊娠してしまう。密かにデンマークに渡って出産し、生んだばかりの子どもを里親に預けて帰国する。近いうちに編集長と結婚して乳児を引き取ることを夢見て。

 しかし現実は厳しい。出産したばかりのつらい体調で、胸はパンパンに張って乳が垂れて、服は乳まみれになってぼとぼとに濡れる。その匂いや痛みはこれはもう経験した者にしかわからないだろう。わたし自身も乳が張って乳腺炎になった経験があるから、その痛みはよくわかる。飲ませる乳児がそばにいてさえそのような病気になったのだから、ましてや生んだ子どもを手元から離してしまった母親のつらさは想像に余りある。

 しかし不倫相手の編集長はそんなアストリッドの苦悩がまったく理解できない。彼自身も妻との離婚協議がうまくはかどらずにイライラが募るのだが、アストリッドが感じているつらさや疎外感など、女性にだけ強いられた倫理や性差別の実態に無自覚なままだ。やがてアストリッドがそんな恋人の態度に切れてしまう日がやってくることは当然だろう。

 物語は成功譚ではない。主人公が成功する前のつらい日々を描いているわけだから、物語は暗く静かで鬱々とした気分が蔓延してくる。見ていて何も楽しくない。実際その通りだからしょうがないのかもしれないが、観客の方もその状態を心して見るべき映画だろう。心が落ち込んでいるときやしんどい時に見て元気が出るわけではない。しかし、観客は知っている。この若く才能に満ちてまだ社会に認められずに悶々としている彼女がいずれ世界的ヒットメーカーとなって大成功することを。それだけが本作の救いだ。だからこそ、この映画の撮影の美しさ、光の美しさに恍惚となる。そう、ここには光があるのだ。

 成功し年老いたアストリッド・リンドグレーンが映画の巻頭と、ところどころに登場する。アストリッドばあさんは子どもたちからのファンレターを読んでいる。「なぜあなたは子どもの心がわかるのですか」と無邪気に問うその手紙に彼女は何を思うのだろう。画面では年老いた彼女の後姿が写るばかり。(レンタルDVD)

2018
UNGA ASTRID
スウェーデンデンマーク Color 123分
監督:ペアニル・フィシャー・クリステンセン
脚本:キム・フップス・オーカソン、ペアニル・フィシャー・クリステンセン
撮影:エリク・モルバリ・ハンセン
音楽:ニクラス・スミット
出演:アルバ・アウグスト、マリア・ボネヴィー、トリーヌ・ディルホム、サムエル
ヘンリク・ラファエルソン