きみが死んだあとで
巻頭、学生服姿の山崎博昭の写真パネルが大写しになる。羽田空港へと続く弁天橋の上でその大きなパネルを持っているのはこの映画の監督なのだが、そんな説明はない。雨の中を立ち尽くす学生服姿の監督は自分の上半身と山崎博昭の写真を重ねている。その写真に雨粒が垂れて涙のように見える。その橋こそ、1967年10月8日に京大生山崎博昭が機動隊との衝突によって死亡した場所である。この冒頭のカットはかなりよく練られている。
その後、山崎博昭の生い立ち、大阪府立大手前高校での生活、友達、マルクス主義研究会、といったあの時代の理屈っぽい高校生の日常が実兄や同級生たちの証言によって蘇る。カメラは山崎博昭一家が暮らしていた下町を実兄と共に歩き、風景の移り変わりを語ると同時に、変わらない雰囲気もまた描いていく。
やがて山崎博昭が京大生になって中核派(革命的共産主義者同盟中核派)に加盟したいきさつが語られる。やたらと元中核派の活動家が登場するので、まるで中核派のプロモーションビデオのようだが、考えてみれば全員辞めたわけだから、もう少し暗い話なるのかと思いきや、彼らは懐かしい青春時代を振り返り楽しそうに愉快な表情で語っていく。わたしが「彼らは自分たちの行動について何ら反省がないのか」と訝しく感じ始めるころ、山崎博昭の死の場面が語られ、上巻が終わる。18歳の息子に死なれた母親の気持ちを思うだけでわたしは胸がふたがれ、言葉をなくす。
少々長いと感じた上巻が終わり、下巻は俄然面白くなる。やはり人間は反省する動物であることにおいてこそ知性の輝きがあるのだ。「何をどう間違ったのか」とずっと考え続けていたという同級生で京大文学部を中退した舞踏家がいて、彼の言葉は苦い。それに引き換え中核派をさっさと脱退した同級生たちは偉い、実際彼らの表情が明るいのは、「自分たちはすぐに党派のいやらしさに気が付いた」という反省者としての自負があるのかもしれない。
一方、1994年まで中核派幹部として活動していた赤松英一は口が重い。しばしば沈黙し、熟考しながら言葉を選んで語っていく。赤松はスターだったという下級生の女性の証言があり、赤松にオルグされた中核派がいかに多かったかが想像できる。
下巻は山崎が死んだ後の物語となる。東大全共闘代表だった山本義隆が登場し、学生たちを支援する救援連絡センターを作った水戸喜世子が登場する。そこではその後の全共闘運動の盛り上がりと、やがて来る内ゲバの暗澹たる時代が語られ、悔悟の念が強く漂う。水戸喜世子の夫・水戸巌は反原発運動のリーダーの一人であった研究者で、1986年末に息子二人とともに剣岳で遭難死した。あの当時、3人遭難のニュースを新聞で知った衝撃を今も忘れない。「遺された喜世子さんの慟哭やいかに」と、わたしなら決して立ち直れないだろうと思ったものだ。家族の遭難死についての疑惑がこの映画で語られる。
50年以上前の、生真面目で優等生だった学生たちが考えたこと、行動したこと、命をやりとりしたこと、それは今となっては多くの若者には遠い世界の「無意味な死」として受け止められるのかもしれない。今の若者たちにこの映画は届くだろうか? 社会運動は確かに暴力的で偏向していた、それはある局面では事実を言い当てている。しかし圧倒的な暴力を保持していたのは権力の側であり、それは労働運動や社会運動が始まった200年前から世界史の中で明らかである。歴史を知ることは今を知ることだが、その視点をこの映画はどこまで獲得できているだろう。いくつもの思考を刺激し想起させるという点でこの作品はぜひ多くの人に見てほしいと思う。見終わって誰かと語り合いたくなる作品だ。