家族を想うとき
前作「わたしは、ダニエル・ブレイク」と同じような演出方法で描かれているこの物語はしかし、ダニエル・ブレイクよりいっそう悲惨で絶望的な姿が抉り出されている。
原題の”Sorry we missed you"は宅配業者が不在票に書く言葉で、「お目にかかれず残念です」の常套句。日本なら「ご不在でしたので持ち帰りました」と書いてある部分。これは同時に主人公一家の状態をも指している。
「ダニエル・ブレイク」のときと同様に、巻頭は絵が現れずに二人の人物のセリフだけが流れる。前作と同様、それは面談の様子なのだ。ダニエル・ブレイクが福祉行政の窓口であれこれと質問に答えていたのと異なって「家族を想うとき」では、中年男性が転職のための面接を受けている。
ずっと肉体労働者として働いてきた主人公リッキーはよりよい給料を求めて運送業の「自営業者」となる。実態は偽装請け負いにほかならない。働いても働いてもささいなことで罰金が追いかけてくる。労災補償はない上にノルマがある。自営業者のはずなのに休日を自分で設定できない。こんなことがまかり通っているのは遠くイギリスだけのことではない。我が国でも同じことはいくらでも起きているのが現状だ。
ケン・ローチは相変わらず有名な役者を使わずにほぼ素人に見事な演技をつけている。その演出方法のかいあって、この映画は本物の労働者階級の家族ではないかと思わせるリアリティがある。夫は長時間労働で疲弊し、妻も訪問介護の仕事で一日中家を空けている。かまってもらえない高校生の息子と小学生の娘たちはそれぞれに親に反抗してしまう。
なぜそんな無理をしてまで働くのか? 持ち家がほしいというささやかな願いをかなえるためなのだ。2年頑張って働けば家を持てる! しかし実際にはリッキーの一家は半年ももたずに崩壊への道をたどることになる。
この映画を観ていると、人はなんのために働くのかと絶望的な気分に襲われる。少しでも豊かな暮らしをと思って懸命に働けば働くほど自分の首をしめることになる過重労働のすえに、家族の心も離れ離れになってしまう。つねに苛立ち、余裕のない言動をとってぎすぎすしていくリッキーたち一家の様子をローチ監督は手に汗握る演出で見せていく。
ただし、ケン・ローチ監督作品でこれまでも気になるところはジェンダーバイアスから自由になっていない点だ。本作でも、やさぐれてしまう父親とあくまで優しい母親というステレオタイプはそのままだ。しかしこれは実際の多くがそうなのだから現実を反映しているだけ、とも言える。
希望はあるのか? この生活に光は見えるのだろうか。労働者の命を削って資本主義は増長する。そのお先棒を担いでいるのがほかでもない消費者としてのわたしたちでもある。そのことが如実にわかる作品だ。
2019
SORRY WE MISSED YOU
イギリス / フランス / ベルギー 100分監督:ケン・ローチ
製作:レベッカ・オブライエン
脚本:ポール・ラヴァーティ
音楽:ジョージ・フェントン
出演:クリス・ヒッチェン、デビー・ハニーウッド、リス・ストーン セブ、ケイティ・プロクター、ロス・ブリュースター