吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。

人生をしまう時間(とき)

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 森鴎外の孫である80歳の医師、小堀鴎一郎は東大病院の名外科医であった。定年退職後の67歳のときからずっと、町医者として終末期の患者の在宅診療に携わってきた。そんな老医師とそのチームに密着したドキュメンタリー。NHKスペシャルとして放送された番組に新たなシーンを追加し、映画用に編集しなおしたのが本作である。
 小堀医師が勤める病院は埼玉県新座市にある。小堀医師はとても80歳に見えない背筋のピンと伸びた矍鑠(かくしゃく)たる老人で、自らハンドルを握って軽自動車で往診に回る。郊外の町だから、在宅患者も一戸建てに住んでいる人が多い。小堀医師は明るくユーモアに富んで、そのうえ単に親切な医師というだけではなく、厳しいことも患者にきちんと伝える。ここまでカメラで撮るのかと思えるような場面まで撮影されているかと思えば、「最後は家族だけで」と小堀医師も遠慮して席を外すなど、患者家族との深い信頼あってこその距離感が印象的だ。
 小堀医師だけではなく、同僚で二回り年下の堀越医師も登場して往診に努めている。小堀と堀越は親子ではないかと思えるほど雰囲気が似ていて、温かい口調もよく似ている。若い堀越は老人の小堀よりもいっそう穏やかで、優しい。この二人は本当にいい同僚なんだろうな、と思わせるものが画面から伝わる。
 全盲の娘に介護される寝たきりの父、老いの迫る母に介護される末期癌の娘、一人息子に介護されるわがままな老人、103歳の知的で美しい老婦人、さまざまな人々が自宅で死を迎え、あるいは最後に施設や病院に入っていく。どんなケースであっても小堀医師と堀越医師は患者と家族にとって最善の道を懸命に探り、最期のときを穏やかに過ごせるように腐心する。そしてある時は「治らないよ、よくなるものではない」と厳しい現実を理解させるべく、諭す。死と向き合い、死を迎え入れることが大事なのだと語っているように見える。 
 この映画を観ても小堀がなぜ最先端医療の現場から終末期の在宅診療へと方向転換したのか、その深い心理はわからない。もちろん彼は自分の言葉で「外科の手術をしていたころは、職人的なところに走りすぎたという反省がある」と述べているが、それだけではない何かがあるように思えてならない。映画で描かれなかった点は小堀の著書『死を生きた人びと 訪問診療医と355人の患者』を読むべきなのだろう。
 ところで、本作はまた労働映画でもある。訪問看護師、ケアマネージャ、ヘルパーといったプロの的確で素早い対応と連携が終末期の患者と家族にとっていかに大きな支えとなるかを如実に描いている。実際、どんなに愛情を込めて介護していても、2年間認知症の妻を入浴させられなかった夫は、目の前のテキパキしたプロの働きぶりに感動のあまり呆然としている。ヘルパーなどの公的支援を拒絶していた夫は堀越医師の丁寧な説明を聞いて気持ちを変えた。その結果、妻はひどい便秘を摘便してもらえたし、風呂にも入れてもらって顔色がよくなり、肌もつやつやになった。それでも本人は「もういいよ、(風呂は)面倒だよ」と繰り返し、機嫌が悪くなったのは悲しい。よかれと思ってするサービスも本人の意に沿わないこともある、そんな厳しい現実も見せつけられた。
 この映画はとても他人事と思えない。わたしは数年前に義父の最期に立ち会ったことを思い出した。臨終にも葬儀にも間に合わなかった実父を思い出した。実父が亡くなってちょうど1年、最後のお別れをしていないわたしは未だに父が死んだとは思えず、しょっちゅう夢に見ている。NHKで放送された時に大反響を呼んだというのもそういうことだろう。誰にでも必ずやってくる最期の時。それをどう過ごすのか、誰とどこで過ごすのか、それはその人がどう生きてきたかを問うことでもあると思う。(機関紙編集者クラブ『編集サービス』2019年9月号に書いた記事を一部修正、追加)
(2019)
110分
日本

監督:下村幸子