吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

ロケットマン

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 まずは「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」(2014年)ばりのド派手な鳥男が逆光の中に浮かび上がる印象的な場面から始まる。それは舞台衣装に身を包んだエルトン・ジョンだ。憔悴しきった彼はステージに背を向けて集団セラピーの場にやってきた。そこでドラッグとアルコール中毒の日々を語り始めるエルトンは、「どんな少年時代だったの」というカウンセラーの問いに答えて過去を語り始める…。

 というファンタジー色にあふれた演出で始まる本作は、「ボヘミアンラプソディー」の監督を途中降板したブライアン・シンガーに代わって代役を務めたデクスター・フレッチャーが監督している。当然にも「ボヘミアンラプソディ」を意識した演出になっているのだが、ボヘミアンとは違って完全なミュージカルであり、リアリティよりもファンタジー色を追求している。また、衣装の派手さはフレディ・マーキュリーのはるか上をいくエルトン・ジョンの好みもあって、画面全体がサイケデリックだ。

 とはいえ、巻頭の場面がおなじみの、10人ぐらいが輪になり椅子に腰かけて自分語りをするという陰鬱なグループセラピーの光景なので、いったいどんな暗い話が展開するのかと覚悟を決めると、画面は一転して愛らしい少年が天才的な音楽の才能を見せる1950年代へと遡る。イギリスの労働者階級の家庭に生まれた少年が偶然にも見せた音楽的才能、それによって音楽学校への特待生進学が実現するが、その栄光の陰で彼は両親から愛されていないという疎外感にさいなまれていた。

  暗い場面と明るく弾けるミュージカル場面とが目まぐるしく交代していく。1950年代の遊園地でのミュージカル群舞は「ラ・ラ・ランド」を彷彿とさせる見事なワンカットシーンだ。これらの場面でかかるのはもちろんエルトン・ジョンの曲ばかり。大ヒット曲「土曜の夜は僕は生きがい」というノリノリのロックとともに50人のダンサーが古い時代のダンスを弾けながら踊る。

 前編にエルトン・ジョンの曲が流れるから、古くからのファンには懐かしく、彼の楽曲を知らない観客にもそのメロディラインの美しさやビートの良さによってすんなりと体に音楽が入ってくるだろう。思わず身体を揺すって踊りだしたくなるような、「クロコダイルロック」、ミュージックビデオみたいな「ホンキー・キャット」など、いずれもミュージカルとして演出されている。つまり、役者が突然歌って踊りだす、あれだ。

 タイトルにもなっている「ロケットマン」は最後にかかる。エルトンが超満員のスタジアムで観客に向かって歌い踊りピアノを弾き、得意げにポーズを決めるシーンは「ボヘミアンラプソディ」のライブエイドのシーンさながらだ。

 「ボヘミアンラプソディ」と違ってこの映画は過去と現在の時制をまたぐ複雑さをもち、スローモーションやストップモーションを随所に取り入れた派手な演出が目を引く。凝りに凝っている、と言える。

 エルトン・ジョン自身が製作総指揮をとっているだけあって、彼のお墨付きの映画と言えるわけだが、だからといって暗い過去を隠すわけではなく、依存症患者となって泥沼の底をはいずっている時期のことも、同性の恋人であったマネージャーに利用されて傷つき別れていく場面もちゃんと描いている。むしろ被害者意識が前に出ているともいえる。

 本作は「ボヘミアンラプソディ」との共通点がたいそう多いゆえに違いもまた見つけて楽しめるのではなかろうか。 

(2019)
ROCKETMAN
イギリス

監督: デクスター・フレッチャー 
脚本: リー・ホール 
出演: タロン・エガートン 
ジェイミー・ベル 
ブライス・ダラス・ハワード 
リチャード・マッデン