吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

ファースト・マン

f:id:ginyu:20190209190056j:plain

  宇宙飛行士の姿と「ファーストマン」という言葉を見た瞬間に「人類初の月面着陸、アームストロング船長だ!」とわかるぐらい、我々世代にとって彼は超有名人だ。それは1969年7月20日のことである。日本では午前2時頃の出来事であり、当時11歳のわたしは真夜中にもかかわらず興奮して中継を見ていた。「こちらヒューストン」という同時通訳者の言葉が今でも耳に残っている。
 それから50年近くが経って、ようやく彼の伝記映画が生まれた。かくも長き時間にわたって映画が作られなかった要因は、一つに本人があまりに寡黙で伝記本そのものの出版がなされなかったこと。もう一つは月面着陸映画には莫大な費用がかかることが考えられる。
 かくしてこのテーマには「ラ・ラ・ランド」などの大ヒットで飛ぶ鳥を落とす勢いの若きデイミアン・チャゼル監督が挑戦したのである。
 高速回転するコクピットに観客を放り込み、荒涼たる月面に降り立たせるため、チャゼル監督はこの作品をIMAX用に65ミリカメラで撮った。ドラマの部分ではフィルムで撮影したかのような優しい風合いの色使いを見せ、縦横に撮影方法を変えて二時間半を飽きさせない。
 しかし、飽きさせないからといって疲れさせないわけではない。ドキュメンタリータッチで描かれたアームストロングの私生活や訓練風景では画面が揺れすぎて目がついけいけなくなる。そして、過酷な訓練場面ではこちらまで猛烈な宇宙酔いに合いそうなほどに画面に入れ込んでしまう。冒頭からして、テストパイロットだったアームストロングの緊張がじかに伝わるような爆音と振動が響き、いきなり緊張の中へと鷲掴みにされるのだ。
 アームストロングは幼い娘を病気で亡くした。彼は涙を人には見せず、悲しみを言葉にすることもなく一人で抱えていく。極端に無口な男は、常に冷静沈着。宇宙飛行士になってヒューストンに引っ越した彼は新しい家族も増えて毎日が充実しているように見える。宇宙飛行士たちはみな近所に住んで家族ぐるみでつきあい、仲がいい。しかし相変わらずアームストロングは無口だ。
 この映画はアメリカ映画らしいジョークもしゃれたセリフもほとんど登場しない。脚本家泣かせの主人公なのだ。
 そんな抑制の効いた男をライアン・ゴズリングは好演している。実物よりも男前のゴズリングが、仲間の死を乗り越えて前人未到の世界に挑戦するアームストロングの内面をほとんど変化しない表情で表現する。かなり高度なテクニックが必要な演技であり、チャゼルはアップを多用してぐいぐいと迫ってくる。
 ところで、なぜ何人も犠牲を出して多大な税金を使ってまで米ソは宇宙開発競争に血眼になったのだろう。東西冷戦時代は、今では考えられないほどに互いへの不信感で満たされていたのだ。世界中が興奮してテレビ中継を眺めた偉業といえども、それは世界中を幸せにしたわけではないだろう。この当時、宇宙飛行士は全員白人男性だった。アメリカ社会はベトナム反戦運動に揺れていた。月面着陸という熱狂は、政府に批判的な人々の目をそらす役目も果たしていたのではないかと勘繰りたくなる。
 この映画はアームストロング船長の個性そのままに、この熱狂を英雄個人とその家族との愛に満ちた静かな対峙として描いた。見終わって、心地よい疲れに満たされていることに気づくだろう。そして、この映画が決して月面着陸を英雄譚としてのみ描いたわけではないことにも思い至る。観客によって受け止め方がさまざまに異なる、そんな変化球をチャゼル監督は投げてきた。ここはぜひともIMAXでその球を全身没入して受け止めてほしい。(機関紙編集者クラブ「編集サービス」に掲載した記事に加筆)

ファースト・マン(2018)
FIRST MAN
アメリ
監督:デイミアン・チャゼル
原作:ジェイムズ・R・ハンセン
脚本:ジョシュ・シンガー
出演:ライアン・ゴズリング
ジェイソン・クラーク
クレア・フォイ
カイル・チャンドラー
コリー・ストール
キアラン・ハインズ
クリストファー・アボット
パトリック・フュジット
ルーカス・ハース