吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

おやすみなさいを言いたくて

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 わたしにとっては去年いちばんの衝撃作だった。「あの日の声をさがして」に続いて重い作品を見たために、心がずっしりと疲れを背負ってしまった。とても他人事とは思えずに見ていた。もちろん仕事の質がまったく違うとはいえ、家族を犠牲にしているという事実は報道写真家レベッカもわたしも変わりがない。

 それは、仕事そのものに「使命」を見出してしまった人間の宿命かもしれないし、エリック・ポッペ監督が言うように「仕事中毒」「戦争中毒」「アドレナリン中毒」なのかもしれない。


 映画の巻頭は自爆テロを敢行せんとする女たちの「儀式」の場面で、息を飲む緊迫感に包まれている。まるで花嫁の支度をするかのように、女たちは一人の若く美しい女性の身を清め、化粧し、そしてうやうやしく花嫁衣裳を着せる。。。いや、花嫁衣裳ではなく、それは自爆テロ用のベストだった。ずっとセリフがないままに進むこの儀式がテロリストのそれであることがわかった瞬間に、わたしの心は凍てついた。そして、ジュリエット・ビノシュが黒いチャドルをかぶって淡々とカメラのシャッターを切っている姿も異様で、鬼気迫るものを感じてたじろいでしまう。
 やがて女とビノシュを乗せた車が市場に通りかかり、爆発に巻き込まれたビノシュは大けがをして病院で目覚める。


 ここで初めてジュリエット・ビノジュの役が世界的カメラマンのレベッカという女性であることがわかる。アイルランドの丘の上にぽつんと建つ大きな家に夫と娘二人が帰りを待っていた。しかし、優しく理解あるはずの夫マーカスから出た言葉は「もう無理だ。君の死体を捜し歩く姿を夢に見る。娘たちも母親の死に怯えている。こんな生活は続けられない。疲れた」という意外なものだった。
 夫は海洋生物学者で、セラフィールド再処理工場から出る放射性物質が海洋生物に与える影響について調査している。彼は反原発派の市民活動家であったろうと想像できる。だからこそ使命に燃えるレベッカを愛したのだろう。でも、そんな生活を15年も続けた果てに彼はもう耐えられないと言う。やむなくレベッカは「二度と戦場へは行かない」と約束する。
 13歳の長女ステフは多感な年ごろだ。母親が自分たちを見捨てているかのようなふるまいをすることには耐えられない。と同時に、おそらく母の影響なのだろう、アフリカに興味を持ち、母親と一緒にケニアに行くことになる。そこは安全な難民キャンプのはずだったのだが。。。。


 レベッカが危険な戦地に行くことによって家族を疲れさせる、そのことは痛いほどわかるのだが、これが父親だったらどうなのか? 父が戦場カメラマンだったら? 父が将校だったら? この映画はエリック・ポッペ監督の自伝的作品なのだという。主人公を女性に変えて、より一層問題点が鮮明になるように設定を変えたけれど、映画に登場するエピソードは彼自身が体験したことに基づくという。

 「使命のある仕事を選ぶのか、家族を選ぶのか」という問いはなぜ二項対立なのか。「仕事と愛のどちらが大事なのか」という問いに答えはない。「わたしはどうしようもなく突き動かされるものを始めてしまったの。終わらせ方がわからない」というレベッカの言葉がズンと響いた。恋愛も仕事もボランティアも社会運動も、何かの使命に突き動かされた人々はそれをどうやって終わらせればいいのか、どうやって自分の日常生活と折り合いをつければいいのか、そのことに思い悩む。そんな経験のある人ならばこの映画は琴線に触れるだろう。(レンタルDVD)

TUSEN GANGER GOD NATT

118分、ノルウェーアイルランドスウェーデン、2013

監督: エリック・ポッペ、脚本: ハラール・ローセンローヴ=エーグ、音楽: アルマン・アマール

出演: ジュリエット・ビノシュニコライ・コスター=ワルドー、ローリン・キャニー、アドリアンナ・クラマー・カーティス、マリア・ドイル・ケネディ