吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

アデル、ブルーは熱い色

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 「あなたに触れたいの」「あなたが欲しいの、毎日」「わたしに触って!」
 涙目のアデルが別れた恋人に向ける視線の切なさよ。ありふれた恋のありかを描くこの作品がこれほど切ないのは、ひとえに奇跡のような主演アデル・エグザルコプロスの力だ。ありふれた恋愛は女どうしの深く切ないものであるがゆえに、いっそうその形を鋭角に切り取っていく。

 カンヌ映画祭で監督だけではなく主演2女優にもパルムドールが贈られたという前代未聞の話題作。延々7分間のラブシーンは物議をかもした。まさに「貪り食う」という女どうしの愛し方は強烈なインパクトがある。舐め、味わい、もみくちゃに触り、かぶりつく。全身を絡めあい、重なり、突き、あえぐ。互いを食べあう女どうしの美しい肉体。激しいシーンをよくぞ演じたものだと女優魂に感服。(でもちょっと長すぎる)

 女優を見る映画だから、二人の顔のアップばかりが続く画面にもちっとも狭苦しさを感じない。アデルの分厚い唇がめくれあがっていつも半開きになっている、だらしない愛らしさがたまらない。これほどの逸材をどうやって見つけてきたのか、アデル役に彼女を当てたという点でこの映画の成功が決まった。

 女子高生アデルと女子大生エマの会話が知的なのがフランスらしい。いまごろサルトルだの実存主義だのと会話の中に登場するとは驚きだ。その言葉の通り、彼女たちは実存をかけて社会参加(アンガージュマン)する。デモに参加し、シュプレヒコールを上げ、手をたたき、踊り、笑う。エマは年上の知的で洗練された女性。アデルが一目で恋に落ちる颯爽としたかっこよさがある女性。髪を青く染めた美大生のエマは、アデルを知的世界に導く。これは普通の男女の恋愛でも見られる構造であり、女どうしだからといって何も変わることはない。そういう点ではこれはありふれた恋愛映画に過ぎない。
 二人の間に入る小さなひび割れは、育ちの違いや互いへの依存度の落差がもたらす。これもまた普通のカップルでありがちな軋みだ。「寂しかったの、だからつい。ごめんなさい」と浮気を告白して泣き崩れるアデルをエマは許さない。何年もかけて築いた二人の愛が崩れる一瞬があっけない。

 ありふれた映画を印象深くするのは、二人の表情に迫るカメラと、息遣いまでが伝わる「熱さ」。カメラのかすかな揺れや角度が絶妙に心地よい。いつまでも見つめていたい、泣き虫アデルの表情に魅せられた3時間だった。アデルが成長し、学生から社会人(教師)へと変わっていく姿を追った場面も丁寧に描かれている。

 別れて何年も経ってから再会するシーンの切なさには胸をえぐられた。カフェで会った二人。アデルは例によって泣き虫で、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながらエマにすがる。エマの手を握り、その手を食べる。埋めようのないふたりの溝をアデルの涙が溢れていく。

 エマの髪の色だった青を纏って美しく登場するラストシーンのアデル、彼女の寂しさと切なさと、大人になる決意を漂わせる後姿の余韻がいつまでも残る。気がつけばアデルに寄り添っていた自分を発見した3時間。

 劇場版はもちろんR18。レンタルDVDは上映時間を短くしてR-15指定になっている。それもどうかと思うが。 

LA VIE D'ADELE
179分、フランス 、2013
監督: アブデラティフ・ケシシュ、原作: ジュリー・マロ 『ブルーは熱い色』、脚本: アブデラティフ・ケシシュ、ガーリア・ラクロワ
出演: アデル・エグザルコプロス、レア・セドゥ、サリム・ケシュシュ、モナ・ヴァルラヴェン