吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

レクイエム


 気が付けば今日は9.11。あれから9年が過ぎた。ということは、今日から10年目が始まるのだ。根深い憎悪と復讐の連鎖はやむことがないのだろうか? わたしたちは解を持たない問いの回りを永遠にさまよわなくてはならないのだろうか?


 9.11のこの日は今日にふさわしいテーマを持つ作品を。劇場未公開なのもやむなしの、渋くて暗くて重い映画。

 しかし、9.11を歴史のなかで特別視し、この日をメルクマールとすることは、「アメリカ帝国主義」の視点に迎合することだ。なぜ9.11なのか? パレスチナの人々にとってはもっとたくさんの9.11があるはず。なのにわたしたち「先進国」の人間は、「こちら側」への攻撃であった9.11しか記憶にとどめることができない。そのことをまずは自覚しつつ、そして9年前に亡くなった人々へのレクイエムとして、さらにはパレスチナで亡くなった何万人もの人々への、そしてもちろんこの映画の舞台アイルランド独立戦争以来現在に至るまで、命を落とした人々へのレクイエムとしてこの映画を紹介しよう。


 1975年、北アイルランド。カトリックとプロテスタントの対立が吹き荒れていた頃、17歳のプロテスタント少年が、敵対するカトリックの少年を殺害する。時は流れて33年後、被害者の弟と殺人犯がテレビを通じて対面することになったのだが……。

 二人の間に和解はありえるのだろうか? テレビ対決の行方は? 物語は過去と現在を往還しつつ、緊迫の瞬間が近づく。しかし……。 この物語は、和解の容易ならざることを描く。どうすれば、和解へと至ることができるのだろうか? 



 「ヒトラー 〜最期の12日間〜」、「エス」を撮ったオリバー・ヒルシュビーゲル監督の作品。ドイツ人としてはどうしてもこの罪と贖罪というテーマに向き合う必要があったのだろう。



 和解や癒し、という解決方法を観客の誰もが求めるだろう。復讐は復讐の連鎖を生むだけだ、と思う。しかし、和解は、「赦し」という解決方法だけではないことを知ったのが、この映画を見た収穫だろう。決して許すことなどできない。許したわけではない。けれども、「終わる」ことはできるのだ。許せなくても、復讐の時は終わる。そのためにはやはり、ひとたびは強い復讐心が昇華されねばならない。






 <以下、完全ネタバレなのでご注意ください>







 この映画のクライマックスは、二人がつかみ合いの殺し合いをするところ。ジェームズ・ネスビット は最初から兄の仇を討とうと、リーアム・ニーソンをねらっている。ニーソンはそれを知っていて、冷静にネスビットと対峙する。この映画では、最初から器の大きな男がニーソンであるから、被害者のほうが不利なのだ。体格といい、押し出し、人格、すべてが殺人犯ニーソンに分がある。しかし、それでもやはり被害者のつらさが繰り返しカットバックするから、観客は両者にたいして「中立的」な感情を向けるように誘導される。



 テレビ対決という、いかにものお膳立てをしつらえたマスコミの商業主義への批判めいた視線を残しつつ、物語はどこへいくのか、と思わせておいて、結局は二人が一対一で対決することになる。廃墟となった建物内でのアクションシーンはこの地味な映画の唯一の見せ場といっていい。ほとんど製作費をかけていない映画だが、この場面で、二人が窓から落ちるシーンが圧巻のカメラワークであった。1カットで撮っているように見えたので、不思議でたまらなかったのだ。映画が終わった後で長男Y太郎を呼びつけて、繰り返しこの場面を見せ、「これ、1カットでしょ? どうやって撮った?」と解説を求めた。彼がいうには、二通りの解釈があり、「1カットで撮って、役者たちはマットレスの上に落ちるようにして、大急ぎでそのマットをどける」。もう一つは、「カメラを途中で止めて1コマつないである」という説。結局あれこれと考えた結果、おそらく1カットに見えるようにつないであるのだろうという結論に達した。そういえば、映像が途中で不自然に見える一瞬があって、おそらくそこが継ぎ目だろう。しかし継ぎ目といっても1秒に24コマあるわけで、そんなわずかな隙間も見つけた息子の目の良さに脱帽。



 撮影の技術についてはともかく、この映画では、この二人の対決が終わって、気の抜けたようなネスビットの姿に主張のすべてがあるように思う。本気で殺そうとした相手に反撃され、しかしその相手に諭される。これほど「負け犬」の気分になることはなかろう。それでも、ひとたび、相手を殺そうとする感情と行動の爆発があったおかげで、彼は目覚めることができた。そして、言う。「終わった」と。彼の娘たちは未来への希望だ。その希望のためには、復讐はとどまらねばならない。



 恨みを許すことはできなくても、終わらせることはできる。わたしには、"finish" が "forgive"よりも実感を持った重い言葉として響いた。そう、許さなくてもいい。赦せないことはいくらでもあるのだ。しかし、終わらせることはできる。苦しい結末ではあっても、光は見えた。これが救いだった。(レンタルDVD)

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FIVE MINUTES OF HEAVEN
89分、イギリス/アイルランド、2009
監督: オリヴァー・ヒルシュビーゲル、製作: スティーヴン・ライト、オーエン・オキャラハン、脚本: ガイ・ヒバート、撮影: ルーリー・オブライエン、音楽: デヴィッド・ホームズ、レオ・エイブラハムズ
出演: リーアム・ニーソン、ジェームズ・ネスビット、アナマリア・マリンカ、ポーリーヌ・ハットン