吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

西の魔女が死んだ

 主役のサチ・パーカーは本名サチコ・パーカー。シャーリー・マクレーンの娘だそうで、そう思って見るとなるほど似ている。映画の中では老け役メイクしているけれど、ほんとはわたしと歳のかわらない女性で、まだ52歳なのだった。とても上品なおばあさん役で登場して、端正な日本語を披露している。いかにもイギリスからやってきた英語教師という雰囲気にぴったりの日本語で、今時あんな美しい丁寧な日本語を話す人も珍しかろう。そして、そんなおばあちゃんがまるでビクトリア朝時代の上流階級の女性みたいに上品な居住まいで(でもなんでも手作りするところは上流階級とは違うかも)、古き良き価値観を体現している。

 映画のタイトルが「魔女が死んだ」というのだから、魔女=おばあちゃんが死んだという話であり、おばあちゃん危篤の報を受けて孫娘が母親とともに、おばあちゃんが一人で暮らす山村へと車を走らせる場面から始まる。二年前、登校拒否になった中学生のまいは、親元を離れておばあちゃんの家で暫く暮らすことになった。元英語教師のおばあちゃんは今は一人で森の中の山荘に暮らす。おとぎ話の絵本に出てくるような小ぎれいな家に住むおばあちゃんは、野山でいちごを摘んではジャムを作り、ハーブを育ててはお茶にするという、スローライフを営んでいる。

 というような話が淡々と進む。おばあちゃんは実は魔女の血筋を引いているので、未来がわかるのである。で、まいもその血筋だから、魔女修行をすれば魔女になれる、と吹き込まれて修行に励むことになり…。おばあちゃんは田舎暮らしで、近所の人たちとのつきあいはとっても濃い。近所といってもかなり遠くに離れているのだが、ちょっと変わった粗忽者のゲンジさんや郵便配達のおじさんたちとの交流を通して、まいは心を広げていったりかえって警戒心を持ったりと、様々な心理的葛藤を経験する。いつでも優しいおばあちゃんはまいの姿を見つめ、抱きしめ、思い切りまいと共に生活を楽しむ。しかし、そんな二人の仲にひびが入る出来事が起きて…

 原作がベストセラー児童小説ということもあって、大変上品な作品である。おばあちゃんの住む田舎の風景もたまらなく美しいし、おばあちゃんの美しい日本語がまいに生きることや死ぬことの意味を語るシーンなどは哲学書を読むような清涼感がある。原作未読のわたしにとっては原作と比べての楽しみはなかったけれど、祖母と孫娘との交流は心が洗われるような思いだった。だが、残念ながらその清涼感はこの映画をとても端正なものにしたと同時にさして大きな感動を残すような逸品にもしなかった。もう少しスパイスを利かせてもよかったのではなかろうか。

 おばあちゃんと孫との交流というのは時間が限られたものだ。おばあちゃんにとっては孫にはこの次いつ会えるかわからない。もうこれが生きて会える最後かもしれないという切迫感がある。しかしその「時間のなさ」というものは孫には理解できない。わたしが自分自身を振り返ってそう思う。父方母方両方の祖父母と疎遠に暮らしたわたしにとって、おじいちゃんもおばあちゃんも遠い存在だった。年に1度かせいぜい2度会うだけの人たちだったのだが、それすらわたしが大きくなると一層疎遠になってしまった。最後はおばあちゃんにも何年も会わないままだった、そのことを今とても申し訳なく思う。

 まいが、おばあちゃんとの最後を心残りなままに過ごしてしまったのだとしたら、そのことを彼女が後悔と共に受け止めたなら、それはまい自身が一つ成長したことになる。でも、おばあちゃんは上手を行ったね。おばあちゃんは魔女でした。まいの後悔も切なさもちゃんと見通していたおばあちゃんは素敵な贈り物を遺して逝った。

 後一歩の物足りなさは残るけれど、ほのぼのとして美しい映画です。(レンタルDVD)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
西の魔女が死んだ
日本、2008年、上映時間 115分
監督: 長崎俊一
プロデューサー: 柘植靖司ほか、エグゼクティブプロデューサー: 豊島雅郎、原作: 梨木香歩、脚本: 矢沢由美長崎俊一、音楽: トベタ・バジュン
出演: サチ・パーカー、高橋真悠、りょう、大森南朋高橋克実木村祐一