1952年の市役所というのがこれほど怠惰で文字通りの「お役所仕事」に満ちていたとは正直言って思いがたいものがある。いや、もしこれが当時の役所の実情をかなりリアルに再現していたとして、隔世の感があるのだ。今のお役所は過労死する公務員がいるほどよく働く人々が多い。もちろん、昔ながらの職場もあるだろうし、民間はもっと厳しいのだという叱声も飛んでくるかも知れないが、今の公務員にはこの映画で描かれているように「何もしないのがわれわれの仕事なんだ」などと嘯く人間はいないはずだ。
黒澤明の30作品の中でももっとも評価が高いものの一つがこの「生きる」だろう。うちの父は当然公開時に見ていると思うが、先頃DVDを見て「これはええぞぉ、泣けるぞ、もう、最後はたまらん」としみじみ感慨にふけっていたから、高度成長期を支えた70代の男性には胸に迫るものがあるに違いない。いや、わたしが見たってもちろん、最後のやるせなさや切なさは感無量のものがあるのだが、しかし、なぜかわたしはこの映画を見ても泣けない。
末期癌であることを知ってしまった公僕は、30年間無欠勤だった役所を突然休み、遊び惚ける。早くに妻を亡くして一人息子を育て上げてきた。ただひたすら息子のためだけに役所勤めを全うしてきたのだ。定年まであとわずかというときに、自分は死ぬ。これまで自分は生きてきたのだろうか? 生きてきたと言えるのだろうか? いや、これからその気になれば、生きることができる。そう決意した男は、これまで官僚主義に首まで浸かって事なかれ主義を通してきた仕事のやりかたを変え、役所を動かし、住民から陳情の出ていた公園を作ってしまう。そして彼はその公園のブランコに座って死んだ…
物語の前半、市民課長渡辺が自分の余命を悟って夜遊びしまくるところは退屈だ。志村喬が腑抜けたような顔と力のない声で弱々しくしゃべるものだから、音声も聞き取れなくて、とうとう日本語字幕をONにしたぐらいの脱力ぶり。渡辺課長と一緒に遊ぶ小説家がまるで死に神のようなのもちょっと狙いすぎという感じがして演出が鼻についてしまう。この場面が延々一時間以上続くとだれてしまった。
ところが、渡辺課長が一念発起するところからいきなり通夜の場面に飛んでからはもう白眉の演出だ。渡辺が死を目前にして「生き直し」をする場面を時間軸通りに描かず、通夜の席で同僚たちが酔っぱらいながら思い出話をする展開にしたのは見事だった。これは「羅生門」で同じ事件について様々な証言が輻輳する構成と同じだが、「羅生門」よりずっと証言のアンサンブルが素晴らしい。一つの結論に向かって皆の意見がまとまっていく会話の畳みかけ方がよく練られている。
同僚達が証言する渡辺課長の豹変ぶりが痛々しくも胸を打つ。渡辺はこれまで自分で何かを積極的に行うという前向きの姿勢で仕事をしたことがなかった。そんな男が粘り腰で、動かない役所を動かす。しかしその彼の踏ん張りがとてももの悲しい。未来に向かって明るくエネルギッシュに仕事に打ち込むという姿ではないのだ。相変わらず声には張りがなく弁舌も爽やかではない。しかし、そんな彼にでも命を懸ければ出来ることはあるのだ。
この映画に描かれた官僚主義への批判、渡辺が生きることの意味を仕事の中に見いだそうとする姿勢に、わたしはおそらく百%の共感が持てないのだろう。だから、この映画で泣けないのだと思う。それは、死を目前にしなければ仕事に打ち込めないような、そんな生き方しかしてこなかった男に共感できないからだろう。決して会社人間になれと言いたいわけではない。しかし、なぜ30年間、自分の仕事をないがしろにしてきたのだろう? なぜ職場をもっと「生きる」ことのできるものに変えようとしなかったのか? そのことに歯がゆさを感じるから、渡辺課長に同情することができないのだろうと思う。わたしは努力を怠る人間に共感も同情もすることができない。と同時に、巨大な官僚機構の中間管理職になど所詮できることは限られているという同情もまた湧いてくる。結局のところ、意気に燃える人々のその意志も打ち砕かれてしまう、そんな場所でしかないのだ。そのような諦念と皮肉がラストシーンにこめられていた。
後半の構成が「羅生門」に似ていると書いたが、案の定、脚本には「羅生門」の橋本忍が参加している。橋本は黒澤明に見出されて「羅生門」でデビューしている脚本家だが、なんと最新作「私は貝になりたい」の脚本も担当している。もう90歳になるというのに!(DVD)
日本、1952年、上映時間 143分
監督・脚本: 黒澤明、製作: 本木荘二郎ほか、脚本: 橋本忍、小国英雄、音楽: 早坂文雄
出演: 志村喬、日守新一、田中春男、千秋実、小田切みき、左卜全、藤原釜足、小堀誠、金子信雄、伊藤雄之助