吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。

善き人のためのソナタ

 映画は、重く悲しい内容だったけれど、最後はホロリと来ました。とてもよかった。

 ヴィースラーが「善き人のためのソナタ」を聴いて涙を流すシーンは、「リベリオン」の冷酷な取締官がイェーツの詩を読んで涙を流すシーンを思い出させる。人は美しいものに心を動かされるものなのだ。美しい女性が権力者に陵辱され、その心の痛みを愛する者の慰撫によって癒そうとしている様子を知ってしまったヴィースラーは心を動かされたに違いない。美しいクリスタに恋とも同情ともつかない気持ちを抱いたヴィースラーがクリスタとゲオルクの住む世界に興味を持ったとしても不思議はない。だが、彼がゲオルクの部屋から盗んだものがブレヒトの本だったというのがミソで、これはブレヒトに馴染みのない人には理解できない場面だろう。反体制詩人ブレヒト、「三文オペラ」の劇作家ブレヒト

 タイトルの「善き人のためのソナタ」が一度しか演奏されず、しかもさほど美しいばかりとも言えない曲であったことには不満が残る。ショパンソナタのような美しさではなく、むしろ不安を掻き立てるような不協和音を含むそのソナタを聴くと、「良心」を問いかけずにはいられない自省的な精神を求められるのかも知れない。

 いずれにしても、盗聴を続けるヴィースラーは自分が盗聴する相手の世界に魅入られてしまった。もはや彼はこれまで自分の世界であった無機質で孤独で抑圧的な生活の中に安住はできない。ほころびはほんのささいなことから始まる。一つ職務を踏み外すと、あとはその嘘を取り繕うために次々と虚構の報告書を捏造せずにはいられなくなる。

 観客は最初、盗聴される劇作家ゲオルクとその恋人である女優クリスタの二人に同化するだろう。だがいつの間にか、監視する側のヴィースラーの緊張感をわがものとするようになる。彼の変化は傍目にはほとんどわからない。演じたウルリッヒ・ミューエは東ドイツ出身の俳優で、自身もシュタージに監視されていたという。ミューエは終始ほとんど無表情なのだが、ほんのわずかな表情の変化でヴィースラーの内面を表現する、素晴らしい役者だ。

 最後のヴィースラーの台詞、このたった一言にじんと来た。人は変わることができる。抑圧や脅迫によっても人は変えられてしまうが、それでもその暴力を押しのけていく力を人は持っている。シュタージという抑圧機関を生んだ東ドイツの悲劇と、それをなお乗り越えていける希望を描いた本作は感動的だ。アカデミー賞外国作品賞受賞は当然の結果といえよう。意地悪い見方をするなら、このような「反共映画」はアメリカ人の好むところであろうから。

 ラストシーンのヴィースラーの一言はいつまでも耳に残る名セリフだ。その瞬間に涙がにじんだ。必見。

 この映画の関連本として「シュタージ関係2冊」という記事をアップしています。

DAS LEBEN DER ANDEREN
ドイツ、2006年、上映時間 138分
監督・脚本: フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク、製作: クイリン・ベルク、
マックス・ヴィーデマン、音楽: ガブリエル・ヤレド、ステファン・ムーシャ
出演: ウルリッヒ・ミューエ、マルティナ・ゲデックセバスチャン・コッホウルリッヒ・トゥクール