吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

永遠(とわ)の語らい

 俳優陣が豪華! テオ・アンゲロプロス監督作品常連のイレーネ・パパスが歌う場面なんて迫力満点。
 ポルトガルリスボンを出航した船は波高きジブラルタル海峡を越え、ゆったりと地中海を東へ進む。南仏、イタリア、ギリシャイスタンブール、そしてアデン。さらに南下してエジプトへ。
 それは遺跡を訪ねる母娘の旅。母はポルトガル歴史学を教える教授(若くて美しい!)だから、何ヶ国語も理解する女性で、娘(かわいい!)に各地の歴史を教えて回る。わたしもその娘と一緒に「ふーん、そうなの」とガイドつきの観光旅行・世界遺産の旅、というのんびりした雰囲気にひたってしばし楽しむ。母娘はインドまで行きそこでパイロットの夫(父)と合流してバカンスを楽しむ予定なのだ。

 ギリシャまでたどりついたところでわたしは、この旅が西洋文明を遡る旅であることにふと気づいたんだけど、そのあとアデンの下町が映ると、思わず「おお、アデン・アラビア!」と叫んでしまった。エジプトまで来ると、「ナポレオンが遠征した場所で……」という通りすがりの男性の解説に「そうそう、スフィンクスの鼻をもげさせたのはナポレオンよね」と思い出す。 
 薀蓄たれの教養番組かいな、これは。と思い始めたころ、映画は第二部というべき展開を見せる。母娘が乗った船の豪華な食堂が今度は舞台となる。船長(ジョン・マルコヴィッチ)のテーブルには中高年女性が3人招かれていて、彼ら4人がそれぞれ英語、イタリア語、フランス語、ギリシャ語で会話しているのになぜか通じてしまう。
 この4人の会話が知的でたいへん興味深い。だが、この会話劇の演出は退屈だ。一人ずつが画面に登場し、順番にしゃべっていくという演劇的で不自然な会話だから、会話の内容そのものに興味を持てない観客ならまず爆睡もの。
 翌日、このテーブルにかの母娘が招待され、さすがにポルトガル語は通じないので英語で話すことになる。こうなると、英語はやはり世界帝国主義言語なのである。 
 船長のテーブルは船長だけが男であとは全員女性。そして女性たちがそれぞれの豊かな人生経験に基づく哲学や人生観を語る。ここでアメリカ人の船長は司会者の役だ。船長自身はポーランド移民の二世であり、言葉で苦労した自身の経験を語る。

 と、ここまで1時間以上、歴史の旅と西洋文化論を堪能するインテリ向けの格調高い映画なのだが、95歳のオリヴェイラ監督は観客に罠をしかけていたのだ。ラストを見てから最初にもどってこの映画を見直せば、オリヴェイラの隠された意図に気づいて震撼する。

 驚愕のラストはいったい何が言いたいのだろう、オリヴェイラ監督の真意を測りかねる。西洋人同士はたとえ母国語が異なっても同じテーブルで会話できるが、他の文明の人々とはそうはいかないのだという冷酷な事実をつきつけたのか、それとも……
 もしそのような「冷厳たる事実」をのみ提示して終わるなら、ハンチントンの『文明の衝突』をわたしたちに想起させてしまうだけではないか。老大家は何を言い残したかったのだろう? これは(西洋文明にとって)あまりにも残酷な結末だ。だが、そう思うのはわたしが「こちら側」の人間だからだろう。オリヴェイラが「こちら側」に送ったメッセージは痛烈なあまりにも痛烈な皮肉に満ちている。(レンタルDVD)

UM FILME FALADO
制作年 : 2003
上映時間:95分
制作国:ポルトガル、フランス、イタリア
監督・脚本: マノエル・デ・オリヴェイラ
製作: パウロ・ブランコ

出演: レオノール・シルヴェイラ
    フィリッパ・ド・アルメイダ
    ジョン・マルコヴィッチ
    カトリーヌ・ドヌーヴ
    ステファニア・サンドレッリ
    イレーネ・パパス