吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

シカゴ

なんといってもキャサリン・ゼタ=ジョーンズが光っていた。踊りも歌もレニー・ゼルウィガーを完全に食ったね。あの女豹のような妖しい瞳、しなやかな肢体、脚線美、どれもこれもうっとり。
夫に訊いてみた。
「ねえ、キャサリン・ゼタ=ジョーンズレニー・ゼルウィガーと、どっちがいいと思う?」
「美人なのはゼタ=ジョーンズやけど、お付き合いしたいのはゼルウィガーやなぁ」
「わたしはどっちに似てる?」
「どっちにも似てない」
……ふんっ、どうせっ。 

 1920年代のシカゴは、アメリ社会学隆盛の地だった。当時、シカゴ大学社会学者たちはシカゴ学派と呼ばれる、ヨーロッパの学問とは異なったアメリカ的な社会学を生み出していた。シカゴは急速に都市化が進んだ町であり、都市問題が大きな課題となっていた。犯罪が横行し、ギャングが跋扈する大都会シカゴ。そう、欲望と陰謀と暴力と夢と富と腐敗とアル・カポネのシカゴだ。
 そのような町シカゴでこそ、都市に蠢く人々を観察する実践的な社会学が生み出された。この映画も、まるで「社会問題」や「犯罪」がいかに構築されるかを社会学者の視点で観察したような作品だ。アメリカ人の大好きな法廷シーンでは、被告側も検察側も真実よりも大切な、「自分達にとっての犯罪」を構築するために詭弁をつかってまくしたてる。
 シカゴでは殺人すらが商品だ。次々に起こる犯罪はメディアに消費され、新たな商品価値をともなって市場に流通する。この映画の登場人物はすべて野望を抱いた下卑た「悪人」ばかりで、唯一の善人はロキシーレニー・ゼルウィガー)の愚直な夫だけ。ところが、消費される殺人事件もしたたかな悪女たちも悪徳弁護士も皆が皆、観客には悪意をもって見られることはない。むしろ、その見事な悪乗りぶりに喝采さえ送りたくなる。
 この映画、けたたましさやドタバタぶりは「ムーランルージュ」とさして変わらないのに、作品の出来は月とすっぽんだ。「シカゴ」はドラマ部分の構成がきちんと考えられていて、社会風刺が痛烈に効いている。そのブラックぶりが観客の心を刺す。しかも刺された方もユーモアの砂糖漬けの針なもんだから、思わず笑ってしまうのだ。その上ダンスが素晴らしい。
 ストーリーはあらすじだけ書けばどろどろと暗い社会派映画になりそうなのに、ジャズ・ミュージカルの豪華な味付けと適度な猥雑さとスタイリッシュな振り付け(女囚たちの踊りは圧巻!)、脇役の芸達者ぶり(ママ・モートンの偉大なる存在感には拍手)などなど、楽しい見所満載なので、頭を使わずに気楽に楽しめる上質の娯楽作に仕上がっている。
 登場人物がいきなり歌って踊り出す奇異なミュージカルに不慣れな人も、この映画のように現実場面とロキシーの妄想場面との切り替えがうまく効いている作品にはすんなり入り込めるだろう。物語が進むうちにダンシングシーンとドラマシーンは渾然一体となり、いっそう違和感がなくなる。
 この作品では、とりわけオープニングのカットバックのスピーディな演出が冴えている。舞台上の華やかで迫力溢れるキャサリン・ゼタ・ジョーンズの踊りと、それを舞台下で見つめるレニー・ゼルウィガーの羨望の眼差し。キャサリンの見事な歌と踊りのシーンとレニーの情事のシーンを同時進行で見せるこの導入部は、観客の目と耳をしっかり掴む。
 いやあ、実に楽しかった。映画はこうでなくちゃいけません。絶対に劇場で見よう。テレビ画面では迫力ほとんどなし。まだ間に合うので、未見の人は今すぐ映画館へダッシュ!(リチャード・ギアの艶のない声だけはNoGood! 吹き替えてほしかったね

製作年:2002
上映時間: 113分
製作国: アメリカ合衆国
監督: ロブ・マーシャル
製作: マーティ・リチャーズ
原作: ボブ・フォッシー
     フレッド・エッブ
脚本: ビル・コンドン
撮影: ディオン・ビーブ
音楽: ジョン・カンダー
    ダニー・エルフマン

出演: レニー・ゼルウィガー
    キャサリン・ゼタ=ジョーンズ
    リチャード・ギア
    クイーン・ラティファ

    ジョン・C・ライリー