吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

光の雨

 この映画を「いい映画だ」と言うことはできない。いい映画とは、どんなに暗く悲惨な内容でも、後に必ずなにがしかの希望を残していたり、あるいは、まったく絶望の淵に追いやられても、そのカタルシスに感情の解放を味わうことができるものだ。ところが本作は、痛い。痛すぎる。その上、甘い。それは、この映画の製作者たちが抱いたいらだち、痛恨、負い目、蹉跌、それらの果てにある「なぜ?!」が解決されていないからだ。


 本作は、1972年の連合赤軍事件を、現在の視点から問いかける作品。なんで今頃、と思うか、やっと今、と思うかはどうでもいい。これは高橋監督が撮りたくてたまらなかった題材であり、彼の私的思い入れが先行して出来た作品だ。実はそういう作家性の強い作品にはいいものが多いとわたしは思っている。観客なんかどうでもよくて、でもちょっとは説明してやらないとわからないだろうから適当にサービスはするけど、でもほんとは自分だけがわかればいいんだよ、この野郎!という気持ちが伝わってくる。しかも、自分だけがわかればいいと思いながら、実は自分がいちばんわかっていないということもひしひしと伝わってくる。
 この映画の作品としての出来不出来を論じようとする者は、あの事件への思い入れの深さに比例して、作品そのものを論じられなくなる。作品をではなく、あの事件を論じてしまうのだ。作品を超えて議論を触発できる、そういう意味では本作は「いい作品」と言えるだろう。あの事件は誰がどんなふうに描いてもそれなりに問題作になるし(当たり前だ、「問題」を作品にしているのだから)、だからこれを事件の再現映画にしてはならない。
 団塊世代の監督が問い、20年下の若い監督が問い、さらに現代の20代の若者が問う。「なぜ? なんで仲間を殺したの? 革命って何?」と。立松和平の原作を映画化する、そのドキュメンタリーとしてこの映画を構築したことは優れた演出だ。劇中劇であるがゆえに、あの事件が相対化されていく。より一層、後の世代にとっての不可思議さが歴然とする。
 劇中劇の内容自体は、ほぼ連合赤軍兵士たちの手記に書かれた通りだ。それを見るだけでは事件の背景も何もわからない。事件を知らない若い世代が見ればましてや不可解に違いない。だからこそ、事件を再現する役者や監督たちに語らせたのは大正解だった。高橋監督が連合赤軍を悪罵したり責めたりはしていないことは明らかだ。ばかな奴らがいました、こんなことが二度と起きないよーに気をつけましょうね、式の描き方にはなっていない。


 森恒夫役(役名は倉重鉄太郎)の山本太郎が怖すぎた。あれでは単なるやくざではないか。山本太郎が演じる役者は、自分が演じなければならないその倉重のことが理解できない。にもかかわらず、役になりきって仲間を「総括」の鋭い言葉で追いつめていく。「自己批判できてへんやないか!」という関西弁の凄さ。あんな左翼が本当にいたのだろうか。単なる因縁づけにしか思えないのに誰も逆らえない。実はこの辺りは、坂口弘や永田洋子の手記を読むとわかるのだが、森恒夫は抜群に口が立った。立て板に水で、難解な左翼用語を駆使して世界情勢をアジりまくったという。誰も彼の言葉を理解できていなかったのだけれど、反論することもできない。こうして、言葉を操り、知を愚弄する人間が権力を握り、セクトの中で絶対的な立場に就く。言葉は人を傷つける。それはメタファーではなく、本当に傷つけ、自尊心をずたずたにし、ぼろ切れのように命を奪った。
 上杉和江(永田洋子の役名)が、「反革命は日常生活の隅々にまで浸透している。わたしたちは、身の回りの日常生活から徹底的に反革命と闘わなくてはならない。革命は日常から始まる」という意味のことを話すのを聞くと、なぜその結果があのように言葉によって徹底的に自己を追いつめることになったのだろうと暗澹たる思いだ。彼女・彼らには外部がなかった。「日常生活」と彼らが言うところには他者も外部も存在していなかったのだと思う。存在しない外部とは繋がれないし、他者との関係の構築もない。この思考回路をもっと切開したいと思うが、それはまたの機会にしよう。


 高橋監督、結局、総括できていないんじゃない? これは長い長い総括の始まりに過ぎない。「20世紀中に撮りたかった。そうじゃないと自分の20世紀が終らない」という高橋監督は、20世紀に20世紀を残してきたままだ。
 この作品は痛くて甘いと最初に書いたが、それが如実に現れるのがラストのラスト。エンドクレジットが終った後に現れる1カット。これを見逃すなかれ。


 「恋と革命のために生きる」という太宰治の言葉に心酔し、一生の夢として追い続けた夢見がちな元文学少女は、実はそんなもののために生きる気などなかったことに気が付いた。一歩間違えれば自分も妙義山にいただろうと思うと同時に、わたしはああはならなかったという確信もまたこみ上げる。自分をどの位置に置いているのかと、その宙ぶらりんの不安定さに実存を揺さぶる不安に取り憑かれる。一周遅れてきた世代であるにも拘わらず、ガラパゴスのような大学に入ったばかりに、「あの頃」の夢を再現フィルムのように回してしまった自分が、結局は団塊世代に同調もできず、かといって同世代の三無主義には反発しか感じず、若い世代の突き抜けた明るさには失望しかなく、常に視点がさまよってしまうことに気づく。
 この映画を見ていても、わたしの居場所がないと感じる。この居心地の悪さは、救われないのだろうか。しかし、ラストの雪合戦の場面、役者たちが屈託なく楽しむその表情を見ていると、「革命なんて、わからなくていいんだよ。誰もわかっちゃいないし、そんなことは考えなくていい。だけど、何かしら変わりたい、変えていきたいという気持ちだけは持ち続けようよ。あなたたちのその明るさは希望かも知れない。小さな夢でいい、その夢を見続けよう」と画面に向かって呟きながら、きっとこれがマルクス教の今日的解釈のいきつく先なんだと思う。


 「恋と革命」なんて永遠に手に入らないことがわかっているからこそ、安心して唱えることの出来るスローガンなのだ。本気でやればたちまち生きていけなくなる。恋を求めて出会いのためにさすらい、革命を求めて生活を棄てるなんて、そんなことをするはずもないことは分かり切っている。それでも敢えて言おう。わたしはやっぱり「恋と革命のために生きる」、この言葉が好き。

−−−−−−−−
130分、日本、2001
監督: 高橋伴明、製作総指揮: 高橋紀成、原作: 立松和平  『光の雨』(新潮社刊)、脚本: 青島武
出演: 萩原聖人裕木奈江山本太郎、池内万作、鳥羽潤小嶺麗奈、川越美和、塩見三省大杉漣高橋かおり