若松孝二「ゆけゆけ二度目の処女」「現代性犯罪絶叫篇・理由なき暴行」によって自殺から救われたという繊細で偏執的宮台の面目躍如のラインナップ。巻末に映画タイトル索引がついているのもよい。
宮台真司はわたしと同学年だから、世代的に共通する感覚や懐かしさを感じる文章を書く。だが一方、本書を読めば彼我の個性の違いを強烈に感じる。わたしは自分と「社会」との折り合いの悪さに宮台ほどは絶望していない。わたしは能天気に生きていて、いっぽう繊細な彼は豊かな感受性を日々刺激されながら社会との齟齬に耐えて生きているということだろう。そのことは、著者がより深い絶望を描く映画に惹かれることの原因となっている。
本書は雑誌に掲載された映画評を集めたものであり、著者が繰り返し述べる<社会>と<世界>の違いを描くことが連載のテーマとなっている。著者は映画批評をしようとしたのではなく、映画を通じて現在社会を批評しようとしたのだという(宮台氏曰く「実存批評」)。
「<社会>とはコミュニケーション可能なものの全体、<世界>とはあらゆるものの全体だ。古い社会では<社会>と<世界>は重なり、あらゆるものがコミュニケーション可能だとされる。アニミズムやトーテミズムの原初的社会がそれに当たる。」(p354)
そして現代では、社会と折り合いの悪い人間が増えていて、彼らは「世界の調べを聞くこと」によってかろうじて社会のもとにとどまれるのだという。だから、彼にとって優れた映画とは、「世界は確かにそうなっている」という感覚に満ち、深い絶望を刻印された人々が世界の調べに耳を傾けるようなもの、ということになる。そんな著者が傑作として評価するのが「ユリイカ」や「マブイの旅」、「チョコレート」「六月の蛇」「アカルイミライ」といった作品だ。
どれもこれも一癖も二癖もある映画だが、いずれも社会からはみ出し、コミュニケーション不全に陥った者達の絶望と希望を描いている点では共通している。
また一方、宮台は「表現」(イデオロギー)よりも「表出」(情念)を評価する。
“「表出」cathexisは、表出主体の catharsis(感情浄化)を引き起こしたかどうかで、成功したかどうかが判断される。他方、「表現」は、受け手が存在して、受け手が理解したかどうか、理解によって動機づけられたかどうかで、成功したかどうかが判断される。(31p)”
だから宮台は、「表現」としてはあまりにも稚拙であるにもかかわらず「表出」を描くことに成功した「クジラ島の少女」というニュージーランド映画を、「今日あり得ない神話的な構成に感動させられる」と絶賛する。
映画批評を超えて社会システム論や政治問題への数多くの言及が飛び交う本書はまた、宮台真司という個性が自己主張する。露悪的とまでいえる自己言及には腰の引ける読者もいそうだ。さらに、「この映画の解釈はそうではない」「逆だ」「間違っている」「正しい解釈は皆無だ」と他の映画評を悉く否定する独断的物言いも反発を買うかもしれない。映画を語りつつ社会を語り自己を語るいっぷう変わった映画批評には賛否両論が出そうだが、わたしは違和感を抱きつつも、結局最後は著者の個性に引き込まれていった。
とりわけ、目から鱗が落ちる納得批評がいくつもあった点が魅力的だった。
例えば、スティーブン・スピルバーグ監督「マイノリティ・リポート」はおもしろいSF娯楽作だったのだが、舞台が近未来にもかかわらず作品のテイストがどこか古臭さを感じさせるのだ。それに結論がいかにもスピルバーグ的な甘さと妥協に満ちているのが不満だった。だが、それが何に起因するのか、作品全体の骨格のどこが問題なのか、わたしには言語化できなかった。
それを、宮台は「「未来社会のシステム>>主体」(システムが人間に優越する)の恐怖を描くと見えて、「主体>>システム」が不釣り合いに強調される。…「疎外論」時代の映画の意味論と、「物象化論」時代のそれとの違いに対する無知」だと一言で言い当てた。
もう一つ、「マトリックス リローデッド」を使ってネオコンの解説をするあたりもなかなかわかりやすくてよい。この映画の解説じたいはわたしも感じていたことと同じ内容だったので特に教えられることはなかったが、同じことを言うにしても宮台の論は整理されていて、やはり読者を惹きつける。
本書のタイトルが「絶望 断念 福音」という順に並んでいるのは、「より絶望し、断念することによってこそ福音がもたらされる」ということを意味する。そして、その絶望と福音を描く映画が本書に数多く紹介されている。
宮台真司にせよ斎藤環にせよ、とどのつまりは映画にリアリティを求めているという点では一致しているし、リアリティのある映画こそが素晴らしいと評価する。それは「リアリズムに徹した本物らしい映画」という意味ではなく、どんなに荒唐無稽な物語でも、その中に「確かに世界はそうなっている」という感覚が満ちている、という意味だ。
それはおそらく同時代のわたしたちの多くが映画に求めるものと一致するのではなかろうか。だから、今日もわたしは彼らが薦める映画をせっせとチェックするのに余念がない。
(これを1200字以内に短くしてbk1に投稿)