吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2030年ごろかも。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

バベル


 モロッコを旅するアメリカ人夫婦と、彼らを銃撃してしまったモロッコの少年たち、そしてアメリカ人夫婦の留守宅で子守をするメキシコ人の家政婦、さらには銃撃に使われた銃の持ち主だった日本人男性とその高校生の娘。モロッコとメキシコと日本を結んで展開する、人生の大きな裂け目。そこには傷ついた人々と傷つけ合った人々と傷を舐め合う人々の悲しい物語が横たわる。

 モロッコの羊飼いの少年達がふと起こした邪気のない悪戯によって瀕死の重傷を負ったアメリカ人女性スーザンは、異郷の地でなすすべなく死を待つ。夫婦二人の再生の旅だったのに、なんということが起きたのだろう。事態はテロリストによるアメリカ人を狙った銃撃事件だと誤解されて国際的な騒ぎへと発展する。だが警察は次第に捜査の手を真犯人である少年達へと伸ばしていく。

 日本では、聾学校に通うチエコが大人になりかけの少女らしい好奇心溢れる日常生活を友人達と楽しんでいるようだった。だが彼女にはつい最近母親を亡くすという悲しい出来事があったのだ。街で心をときめかせた少年からは聾唖者である自分を「モンスターを見るように」扱われてショックを受ける。チエコの孤独、不満、悲しさを菊地凛子がものすごく印象的な目で演技していた。世を拗ねたような眼差し、そして男を求める飢餓感は自分をおとしめることによって鬱憤晴らしをしているかのようだ。激しい音楽に若者達が身を委ねるクラブハウスの騒音の中で、耳の聞こえない彼女は疎外感を感じる。その様子が印象的な演出で描かれていたが、この場面で気分の悪くなる人が何人もいたようで、映画館では注意書きを配っていた。

 イニャリトゥの演出は手持ちカメラの多用により多少目が疲れたが、セリフで語らせるよりも映像によって語らせるその省略の多い構成には余韻が残る。やはりアリアガ脚本・イニャリトゥ監督というのはベストコンビではなかろうか。彼らは象徴的なショットの挿入によって不条理の生む痛さと、切なさが醸し出す優しさ、文明への批判をさらに印象深く刻みつける。たとえば、アメリカ人スーザンは夫との関係がぎくしゃくしつつ異国を旅しているのだが、彼女には現地の人々や文化を見下すような振る舞いがある。しかし傷ついた彼女を介抱し休ませたのはその現地の人びとであり、彼女の痛みを和らげたのは老婆が差し出した阿片(?)なのだ。パック旅行のアメリカ人仲間がさっさと傷ついた二人を見捨てて去ってしまったのと対照的に、モロッコの人々の優しさが心に沁みる。

 アメリカの留守宅に残された子ども達を連れてメキシコに一時帰国した乳母は、息子の結婚式に出席して一日を楽しむ。だが帰途、とんでもない間違いが起こって子ども達は砂漠に置き去りにされてしまう…! 愚かな人々には目の前のことしか見えない。自分の目先の利害だけで行動した結果がとんでもない事態を生むことを彼らは知らない。

 日本の大都会、バベルの塔のように聳える超高層マンションの最上階が天にも届かんとする人間達の愚かさの象徴だ。その最上階で抱き合う親子をカメラは神の視点から撮る。そこに住む人々の心が通い合わないのはバベルの塔への天罰なのか。そしてまた、愚かな児戯から人を撃ってしまった少年たちがたどった悲劇もまた神の罰なのだろうか。

 本作に難を言えばいくつかある。菊地凛子の全裸は高校生に見えないし、時間軸を微妙にずらした3カ所の物語にとって時間軸をずらせたことの効果がそれほど見られない。だが、いくつかの小さな瑕疵を越えて、生きることの不条理と、結び付き合うこと、他者に受け入れられることの渇望を切なく描いた見事な作品だ。なぜ本作ではなく「ディパーテッド」がアカデミー賞なのか、理解できない。(映倫 PG-12)

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BABEL 上映時間143分(アメリカ、2006年)
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、脚本:ギジェルモ・アリアガ、
音楽:グスターボ・サンタオラヤ
出演: ブラッド・ピットケイト・ブランシェットガエル・ガルシア・ベルナル役所広司菊地凛子二階堂智、アドリアナ・バラーザ
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