吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2030年ごろかも。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

「市民科学者として生きる」

 下↓の日記で取り上げた『「核」論』を読んで思い出したのは高木仁三郎の自伝『市民科学者として生きる』だ。高木さんは2000年10月に大腸ガンで亡くなった。彼の自伝をあるメルマガで紹介したことがある。そのメルマガは最近配信停止になったので、若干の修正を加えてここに再録する。初出は2002年5月。

           *******

 高木仁三郎といえば反原発運動の理論的リーダーであり、大学教員の職を辞して市民運動家になった科学者として知られている。わたしも70年代末からの10年余り、高木さんとはしばしば反原発反核集会や学習会・講演会でお会いしたことがある。論旨明快でいかにも科学者という風情だった高木さん、鋭い目もとに意志の力と知性を感じさせる人だった。

 高木さんについての印象のうち、忘れられないことがある。20年ほど前、ある集会で、イギリスやドイツの反原発活動家を招いたシンポジウムが開かれていた。通訳についた若い女性が、放射性物質(だったと思う)の濃度を訳すときに、桁を一つ間違えたらしい。例えば1000万分の一というべきところを1億分の一と訳した。それを聞いていた高木さんが、聴衆席からすっくと立ち上がって、「違う違う!」と言うや、発言者に英語で直接数字を聞き質した。その時の高木さんは、通訳の間違いをやさしく訂正するというよりは、イライラして怒っているようだった。通訳の女性にしてみれば、自分の未熟さを何百人もの聴衆の面前で非難されたに等しい。高木さんももう少し穏やかに言えばいいものを、とわたしは多少の驚きを感じた。

 高木仁三郎は厳しい人なんだとそのとき痛感した。科学者としては、数字はおろそかにできないに違いない。わたしのような文系人間は数字の多少の異同ぐらい、と軽く考えてしまうが、高木さんにとっては桁数の間違いは絶対に看過できなかったのだと思う。

 さて、高木さんは本書を病院のベッドの上で書いたという。2ヶ月間に300枚の原稿を書いたそのすさまじいエネルギーは、とても死に瀕したガン患者のものとは思えない。死の予感の中で執筆された本書は、高木さんの遺書ともいうべきものである。
「死の予感を生きる力にできるという確信」を持って、核のない社会の実現へと希望をつないでいきたいとの気持ちから、高木さんは自身の生涯を振り返っている。

 開業医の6人の子どもの5番目として育った高木さんは、成績優秀な兄弟姉妹に囲まれて、学業面でははかばかしいところなく、のびのびと子ども時代を過ごした。7歳で敗戦を迎え、その日を境に大人(教師)たちの言動が180度変ったことに不信感を抱いた。その経験が、彼をして権威を安易に信用しない資質を形成させたようだ。

 高校生になって猛勉強を始めた高木少年は、東京大学理学部へ入学する。数学を志したが挫折し、核化学を専攻して、日本原子力事業株式会社に入社した。このころは60年安保闘争の時代である。高木さんは学生運動の熱心な活動家ではなく、デモや集会に何度か参加する程度の学生に過ぎなかった。

 会社での研究生活は、思ったようなものではなく、日本的な集団主義を強制され、会社の意図に沿わない実験や研究は疎んじられる。高木さんが興味をもった核物質の基本研究は、原子力産業にとっては余計なものだったのだ。

 4年半後には会社を辞め、東大原子核研究所へ移る。さらに69年7月に、学園闘争まっただ中の都立大学助教授として赴任した。学生叛乱が問いかけた「大学とは何か」「科学とは何か」「科学者は何をすべきか」という鋭い問いは、「多分に未消化で、生硬なものだったが、そうであるだけに一層、心臓にささった棘のように、未解決のままに私の胸を痛めた」。
 造反教官として教授会では学生の側に立った高木さんだったが、実は自身の学問についてはどうするのかという答が出せず、長いトンネルに入っていった。

 やがて、三里塚闘争宮沢賢治に出会い、自前の学問・科学をめざすことが自分の生きる道だと考え、73年8月に大学を辞し、2年後「原子力資料情報室」を立ち上げることとなった(当初は無給専従の世話役。のちに代表)。
 以後、病に倒れるまで、高木さんは原子力資料情報室の代表を務めた。

 著者は淡々とした筆致で自らの半生を語っている。むしろ、盛り上がりに欠けるような抑えた描き方とも言える。大学を辞する時の苦悩、とりわけ経済的な問題や、妻との葛藤など、さまざまにあったに違いない。だが、大学を去るのと同じ時期に離婚に至った最初の妻のことはなにも触れられていない。高木さんは、この本の中でこのことに立ち入ることを避けているため、人生の最大の転機と思えるできごとにまつわるドラマが見えてこない。ここが最も不満に思えた点だ。だが、高木さんとしては、書くことができなかったのであろう。それだけ、この離婚は傷の深いものだったのかも知れない。

 「見る前に跳べ」が信条だった高木さんは、転職のたびに、先行きをきちんと考えていたわけではなかったという。「無知と無思慮ゆえの無謀が、かえっていろいろな試練や冒険の機会を与えてくれ、自己変革への推進力になった」と述べている。
 「見る前に跳べ」はわたしにとっても座右の銘だ。だがこれで数限りない失敗を重ねてきた。人生を終える前に、それが間違いではなかったと高木さんのように振り返ることができればどんなにいいだろう。

 長くなってしまったが、ここで、本書には書かれていない高木仁三郎にまつわるエピソードを一つ。

 高木家には冷蔵庫がない。反原発に生涯をかけるエコロジストなのだから、無用な電気は使わない。よって、買い置きができない。作りだめができない。その日の食事の材料はその日に買い物をしてその日のうちに食べ切らねばならない。だから、食事の支度にとても時間がかかる。会議が長引いたりすると、買い物と食事の支度の時間がなくなってしまう。高木さんとおつれあいの中田さんは当番制で食事の支度をしている。高木さんは、運動家たちの会議の途中で、「今日はぼくが当番だから、早く帰らないといけない」と言うのだが、周りは納得してくれない。この理解を得るのが実に大変だったらしい。

 働き過ぎの会社人間も社会運動の活動家も、結局は同じ論理で動いているのだ。生活者の視点がそこにはない。食事の支度をしなければならないという切迫感がない。男社会はどこも同じではないか。
 そして、そんな状況を嘆いた高木さん自身が、結局は働き過ぎでガンの発見が遅れた。明らかな自覚症状がありながら、病院へ行くのが延び延びになり、大腸ガンが見つかったときには手遅れだった。会社のため、自分の信念のため、理想のため……動機は様々でも、結局は同じ働き過ぎで、まだまだ人生半ばの人が倒れていく。残念でならない。

 決して温厚な人ではなかったであろう、高木さん。その自他に対する厳しさに出会うとき、背筋が伸びる思いがする。
 高木さんの少し甲高い声、早口のしゃべり方、精悍な表情。
 決して忘れない。
 志を貫いた一人の科学者、知識人の生涯を。

 http://www.cnic.or.jp/takagi/index.html

 ここ↑に高木さんが自身の「偲ぶ会」のために書いた「最後のメッセージ」が掲載されている。わたしはこれを読んで泣いた。長生きしてもらえれば、もっと多くの貴重な仕事をしてもらえたに違いないのに。「惜しい人を亡くした」という言葉がこれほど痛切に響く死も少ない。

「核」論 : 鉄腕アトム原発事故のあいだ 武田徹著. 勁草書房, 2002
市民科学者として生きる  高木仁三郎著 1999. 岩波書店岩波新書)