吟遊旅人ピピのシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。感謝。

アマンダと僕

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  ある日突然愛する人を失う、ということはありえる話だ。事故、事件、突然死、さまざまな理由で人は逝く。だから、この映画の主人公、24歳のダヴィッドが愛する姉をテロ事件で突然喪っても、それは交通事故死などと同じことかもしれない。

 テロが原因で肉親を亡くす。それは今のフランス、とりわけパリのような大都会ではもう他人事ではなくなっているのだろう。だからこそ、喪失から立ち直らねばならない人々にとってこの映画はどのようにみられるのだろうか、そのことがとても気になる。
 というのも、この映画ではテロの前も後も実に淡々と日常生活が描かれていくからだ。仲の良かった姉を失ってもちろんデヴィッドは悲嘆にくれる。シングルマザーであった姉の遺児、7歳の姪アマンダの養育も自分の責任としてのしかかってきた。平静ではいられないだろう。けれど、日々生活は続き、人は働き食事をし、家族の世話をせねばならない。
 巻頭、まだ自分が何者であるのかもわからないような若者の日常生活が映し出される。デヴィッドは正業には就いていないで、いくつかのバイトをかけもちして生きている。そんなときに美しい娘レナと知り合い、彼女といい仲になっていく。また、美しい姉とは仲良くパリの街を自転車で駆け抜けていく。この場面では、わたしが生まれて初めてヨーロッパへ行った昨秋のパリ旅行を思い出してとても懐かしかった。パリの街をレンタサイクルで走り抜けた、あの時のちょっとしたスリルと爽快感は忘れられない。わたしの目の前にはわが息子(27歳)がいて猛スピードでペダルを漕いでいたので、わたしは追いつくのに必死の思いであった。そんな個人的な思い出も蘇り、パリの美しい街並みも思い出されて、もう一度二度三度と訪れたい町パリが恋しくなる。
 ところがそんなデヴィッドに突然の不幸が訪れた。テロ事件の様子はほんの少ししか画面には映らない。そもそも誰が犯人で何が目的であったのかも描かれない。映画はそんなことには関心がないかのようだ。ただほんの一瞬、スカーフを被ったムスリムと思しき女性が街角で人と言い争っている場面がほのめかしのように映し出されるだけ。
 テロ事件の被害者であるデヴィッドもアマンダも事件のことには触れないし、彼らは犯人への憎しみにも政治にも関心がないかのように見える。ただひたすらデヴィッドはアマンダの養育をどうすればいいのかと思いまどう。さらには、なんという偶然か、恋人になったばかりのレナもまたテロ事件でケガをしていたのだった。
 人々の心に傷を残していった事件から、彼らはどのように立ち直っていくのだろう。それはもう、ただひたすら愛することしかない。残された者どうしで愛し合うしかない。そんなことをこの映画は淡々とじっくりと描いていく。
 母を喪ったアマンダは、自分がどうなるのかと気がかりでとても厳しい表情をしている。時には感情が高ぶり、わがままも言う。彼女は本能的に知っている、だれが自分の保護者になってくれるのか、自分の身を守るためにはどうしたらいいのかを。たった7歳の少女に身に起きた、理不尽な事件は彼女の心の奥に滓のように悲しみをよどませていく。しかしラストシーンのアマンダの涙でその澱みがほんのかすかに晴れていくのを見たような気がする。人は涙を預けられる人の胸で泣くのだ。そう、それでいい、それでいいんだよ、アマンダ。
 デヴィッドの涙もまた尊い。姉を喪い、突然保護者にならざるをえないわが身の心細さったら、耐えきれないほどだ。アマンダとぼく、ふたりとも誰かの支えがないと生きていけないほど若くて弱い。でもその二人が、周囲のさまざまな人たちとのちょっとしたエピソードを重ねながら少しずつ寄り添い始めていることがわかってくる。
 決してこのままハッピーエンドとは思えないラストだけれど、前を向いて歩いて行ける、これからも淡々と。 
AMANDA
107分、フランス、2018
監督:ミカエル・アース、
脚本:ミカエル・アース、モード・アメリーヌ、音楽:アントン・サンコー
出演:ヴァンサン・ラコスト、イゾール・ミュルトリエ、ステイシー・マーティンオフェリア・コルプ