吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア

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 巻頭いきなり、巨大な心臓が画面いっぱいに広がっている。それは手術中の心臓であり、大きく力強く脈打っている。その生々しさが不気味で同時に生命力を感じさせる。このオープニングからして既に不穏だ。 
 やがて、その手術を終えた外科医はある少年と親しげに会話し、彼に腕時計をプレゼントする。しかしその少年は悪意を秘めた輝きを瞳に宿している。禍々しい音楽、不吉な視線。ゾクゾクする雰囲気は主人公の外科医だけでなく、見ている観客まで喉を締め上げられているような息苦しさを感じる。
 コリン・ファレルニコール・キッドマンは2017年に本作と「ビガイルド」で共演していて、どちらも不気味な物語でどちらもカンヌ映画祭パルムドールにノミネートされているが、断然「聖なる鹿殺し」のほうが面白い。そもそも、主人公の外科医をじわじわと責め上げる不気味な少年マーティンを演じたバリー・キオガンの気色悪さが群を抜いている。

 やがてマーティンがなぜ外科医にまとわりつくのか、観客にも知らされる。彼の父は外科医スティーブン執刀の手術を受け、術中に亡くなったのだった。責任を感じたマーティンが何かとマーティンの面倒を見ていたのだ。しかし、やがてマーティンの要求は度を増していき、ついには不気味な予言を吐き捨てる呪いの言葉とともにマーティンの家族を破滅へと追いやる。その方法がまた超現実的で、謎に満ちているのだ。呪術でも使ったのか? 次々と倒れていくマーティンの家族。恐るべき復讐の手がマーティンの一家に伸びたとき、マーティンはある究極の選択を迫られる。。。。
 些細な、しかし致命的な、まさに致命的な失敗というものは確かに存在するだろう。人の命を預かる医者であってはそのミスは絶対に許されない。とはいえ、人間のすることなのだから医療ミスはあり得る。スティーブンの後ろめたさには理由があった。その弱みに付け込まれたスティーブンは逃げるに逃げられない蟻地獄に落ちる。
 裕福な医者一家と、父を失い母子家庭となった少年の家の経済格差は歴然としている。マーティンはスティーブンと親密さを増しながら徐々に彼の懐奥深くへと入り込んでいくのだ。まるで寄生虫のように。まるでウィルスのように。まるで、まるで、まるで、スティーブから奪うことが嬉しくてたまらないように。

 ギリシャ悲劇から着想を得たという本作は不条理劇の一種だが、こういう恐怖は現代人の中に巣くっているある種の感情を刺激する。つまり、まったく現実味のない話にも関わらずこのような究極の選択や死が忍び寄る恐怖はリアリティがあるように感じるのだ。豊かな時代の豊かな生活の中ではわたしたちは何かを失うことを常に恐れている。それが何かは人それぞれかもしれないが、今の豊かさや温かさ快適さが実は極めて不安定なものであることに気づいているからだろう。大きな災害があったあとはとりわけそのような気持ちにさせるものがある。(ビデオマーケット配信)

THE KILLING OF A SACRED DEER
121分、イギリス/アイルランド、2017
監督:ヨルゴス・ランティモス、製作:エド・ギニー、ヨルゴス・ランティモス、脚本:ヨルゴス・ランティモス、エフティミス・フィリップ
出演:コリン・ファレルニコール・キッドマン、バリー・キオガン、ラフィー・キャシディ