吟遊旅人ピピのシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。感謝。

ヒトラーの忘れもの

  ヒトラーの忘れ物とは、ナチスドイツ軍が占領国に残していった大量の地雷を指す。連合軍の上陸を恐れて、ドイツ軍はデンマークの海外線に200万個の地雷を敷設した。敗戦後、捕虜となった少年兵がその撤去の作業を強制され、多くの子どもたちが命を落とした。本作はその史実に基づく物語。
 本作の主人公は中年のラスムスン軍曹。彼は祖国デンマークを蹂躙したドイツ兵を許せない。戦争が終わって、敗戦の行進をするドイツ兵に向かって悪罵を投げつけ、激しい暴行を加える。そんな彼に与えられた任務は、海外線の地雷を撤去することだった。そのための人力はデンマークに残ったドイツ兵である。彼の下に送り込まれてきた地雷撤去部隊の人員は全員が15、6歳の子どもだった。素人の少年兵を即席の訓練で地雷撤去係に仕立て上げ、海辺の小屋に寝泊まりさせて作業を行う。最初のうち、ラスムスン軍曹は少年兵たちにつらく当たり、ろくに食べ物も与えなかった。しかし、徐々に彼らの悲惨な状況に同情を寄せるようになった軍曹は、こっそり食べ物を子どもたちに与えるようになる。
 少年兵たちの作業は命と引き換えの、過度の緊張を強いられるものだった。兵士たちが海岸の砂浜に身体を横たえて一つずつ地雷の信管を抜いていく場面は、見ているだけで冷や汗が出る。いつ爆発するのか、いつ彼らは命を落とすのか。実際、多くの少年たちが命を落としたこの作業は、過酷な上にも過酷だった。戦争が終わったので家に帰れると思い込んでいた少年たちは、デンマークにひきとどめられ、いつ死ぬかわからない危険な作業に従事させられる。地雷を爆発させてしまい両手を吹き飛ばされた少年兵が「ママー、ママー、家に帰りたい~っ!」と泣き叫ぶ場面などは正視に耐えない。自分の息子よりも若い、まだあどけなさを顔に残す彼らが母の名を呼び叫んで死んでいく場面を、涙なしには見られない。
 ラスムスン軍曹とて血も涙もない人非人ではないのだ。いつしか少年たちと心を通わせ、疑似父子のような関係になっていく。しかし、そんな彼らの関係にも容赦ないヒビが入っていく。片や占領軍から敗戦軍となったドイツ兵。片や、ドイツ兵を心底憎むデンマーク軍人。所詮は相容れることなどありえなかったのだ。


 しかししかし。


 ラスムスン軍曹はあれほど憎んでいたドイツ兵を、たとえ相手が少年だからといって許すことができるのだろうか。少年たちは、自分たちに責任のない戦争の咎(とが)ゆえに戦後処理をその小さな肩に負わされる。彼らの運命を誰に呪えばいいのか。帰国したらパン屋になるんだ、帰国したらあれをする、これをする、帰国したら。ささやかな夢を語り合った少年たちの未来はほんとうにありきたりで、何ら「大志」でもなければ、「野望」でもない。戦争とはこういうことなのだ。明日を普通に生きるということが許されず、親の仕事を継いで職人になるというごく当たり前の生活が許されない。これが戦争なのだ。もう戦争は終わったというのに、まだ少年たちはそのささやかな夢さえ断ち切られている。母に会いたいというたったそれだけの、家に帰りたいというたったそれだけの希望が許されない。
 許すという行為は美しい。許すという行為は崇高だ。許すという行為は、犠牲なしにはなしえないのだろう。日本を戦争ができる国にしたい政治家をわたしたちは許せるのか? いや、許すべきではない。世の中には、許しが安らぎと希望を与えることもあれば、そうでないこともある。

 戦争ができる国になるということは不幸を一つ多く背負うことだ。そのことをこの映画をみて強く思う。もう、二度と異国の地で命を落とす少年たちがいてはならない。許すことの美しさはこの過酷な体験から血を絞って描かれたものだ。その血染めの平和を二度と手放してはならない。

UNDER SANDET
101分、デンマーク/ドイツ、2015
監督・脚本:マーチン・サントフリート、製作:マルテ・グルナート、ミカエル・クリスチャン・リークス、音楽:スーン・マルティン
出演:ローランド・ムーラー、ミケル・ボー・フォルスゴー、ルイス・ホフマン、ジョエル・バズマン、レオン・サイデル