吟遊旅人ピピのシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。感謝。

淵に立つ

 描かれているのは復讐なのか、贖罪なのか。
 ある日突然、町工場の入り口に中年男が姿を現した。工場のオーナーの古い友人のようだ。礼儀正しい彼は刑務所を出所したばかり、ということは間もなく観客にも知らされる。町工場の住み込み行員になった男は、じわじわとこの家族の中に位置を占めていく。最初は工場主の妻の中に。やがては工場主の小学生の娘の中に、後戻りのできない大きな傷を残していく。それは復讐だったのだろうか。誰にもわからない。
 工場主の妻を演じた筒井真理子がひどく艶めかしい。実年齢は五十代半ばというのに、映画の前半の彼女はつやのある長い髪をやさしく揺らせながら微笑む若奥様を演じている。だが、「事件」から8年後の彼女はすっかり疲れ切った中年女性として画面に現れる。女優とはかくもすさまじく役柄に合わせて変われるものなのか。
 夫婦の絆も家族の愛もなにもかもが、一人の男が一家の中に入り込んできたことによってもろくも崩れ去るさまを残酷に冷酷に描いた作品として、本作は観客に鋭い問いかけを残していく映画だ。小市民の幸せなんてしょせんはこの程度のものよ、とあざ笑うかのような展開に、見る者の心が凍り付く。神を信じたはずの妻がもはやすっかり信仰をなくしてしまう、そんな残酷な日々の中で、それでも真実を知りたいというただ一つの執念に翻弄されていく。なぜ自分たち家族がこんな目に遭うのか? しかし、「こんな目」そのものを全否定することは、観客自身の中にある差別意識との対峙を迫ることになる。なんという意地の悪い映画だろうか。何という戦慄の映画であろうか。

 映画の途中で忽然と消えてしまう浅野忠信が、最後の最後まで零細工場主夫婦を翻弄する。物語の中心である浅野忠信は空洞であるにもかかわらず、この一家の夫婦にとって永遠に追いすがっていきたい執念を植え付ける存在となる。不在の現前。不在であることがかくも大きな現前であるという逆説。浅野忠信に代わって登場する、物語後半の人物は、その出自を明らかにした瞬間に、映画空間を震撼させる恐怖をこの一家にも、そして観客にも与える。これほどの因果をさらりとこの人物に語らせる脚本が怖い。

 誰もが淵に立つこの寓話は、しかし、平凡な日常生活を営む多くの人々にとっても、ある導火線に気付かせるたくらみがある。わたしたちは淵に立っているのだろう、きっと。そのことにずっと前に気付いていながら、気づかないふりをしている。もう気付いていることを言明することすら諦念の中で面倒になり、もはやどうでもいいこととなる。淵に立つ人々は、その淵から転がり落ちたときにはじめて自分が淵に立っていたことに気付くのだろう。いや、気づかない振りをしていたことに思い至るのだろう。

 音が異様に響く映画。こういう音の使い方は「シルビアのいる街で」以来久しぶりかも。

119分、日本/フランス、2016
監督・脚本:深田晃司、撮影:根岸憲一、音楽:小野川浩幸
出演:浅野忠信筒井真理子、太賀、三浦貴大、篠川桃音、真広佳奈、古舘寛治