吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

海よりもまだ深く

 親子役が樹木希林阿部寛という点も、タイトルを古い流行歌からとったという点でも、「歩いても歩いても」の姉妹編と言える作品。テーマもやはり同じように日常生活のささやかな機微を描いている。

 売れない作家の良多(阿部寛)は、離婚した妻(真木よう子)と息子に月一度養育費を渡すことが唯一の楽しみになっている男。月に一度、その日は別れた妻と息子に会えるから。美しい妻に未練たらたらの良多は、探偵を今の稼業としている。「小説を書くための人間観察に役立つから」という理由で探偵事務所に就職した冴えない中年男の良多は、探偵業の相棒である若い同僚と二人で元妻を尾行しているような情けないストーカー男である。金に困って実家に立ち寄っては、老母一人暮らしの留守宅の家探しをして金目の物を持ち出そうとしている。そんな良多のことを姉はお見通しで、情けない弟に嘆息する毎日。
 と、このように物語は良多を中心に、ほとんど彼の実家である団地を舞台に展開する。大きな体躯の阿部寛が背を縮めて窮屈そうに団地の部屋を行き来する姿や、彼が一人浸かれば湯はすべてなくなりそうな狭い湯船が映し出されるたびに、見ている観客も思わず首をすくめる。

  この映画は不思議なほど「昭和」だ。描かれている時点は確かに現在の平成時代に違いないはずなのに、出てくる場面がみな昭和を感じさせる。そもそもロケに使われた団地は是枝監督が少年時代を過ごした実在のものであり、タイトルの由来となったテレサ・テンの歌は「別れの予感」。団地の住人でシニア世代の「先生」は近所のおば(あ)さん連中を集めて自室でクラシックのレコード鑑賞教室を開いている。いまどきレコードですよ。時代設定がいつなのかあやふやなところがこの映画の狙いなのかもしれない。なにしろ主人公は過去のかすかな栄光にすがって生きている男なのだから。彼は作家としての夢をあきらめることができない。別れた妻をいつまでも未練たらしく追いかける。彼自身が変わることができれば、ひょっとしたらまた家族一緒に暮らすことができるかもしれないのに、それにも気が付かない。

 こういう男を見ると、「ズートピア」の主人公の両親の言葉を思い出す。「わたしたちは夢なんか持たないから幸せよ」。人は何にでもなれる、と教えられて育つ。夢を見続ければいつかはかなう、とそそのかされる。しかしそんなものは実現しないのだ。実現しないから夢なのに、人は分不相応な夢を見て、無駄にあがく。もちろんそれはそれで素晴らしいことなのだから、若いうちは努力すればいい。しかし、もういい年をしていい加減に前を向いて歩こうよ。別れた妻に「前に進ませて」と言われてしまうようではもういかんよ、あなた。

 ここには戦争も内乱も一家離散も殺人も狂気もなく、あるのはただ団地の小さな部屋と黴だらけの小さな風呂とみじめったらしい男の情けない姿だけ。こういう映画を見て心を動かされる人はこの作品の何に惹かれるのだろう。あ、もちろんわたしは「すごい、このセリフ、至言だね」「すごい、この描写。さりげなく映し出す日常生活のケの部分のリアリティ」「すごい、この細かいところまで行き届いた演出」と「すごい」を心の中で連発するのだけれど、それのどこがすごいのかと問われ直すと返答に窮する。要するに、ここにはなにも「すごい」ことなど描かれていないのだ。英雄は登場しないし、「この人をお手本に生きよう」と微かに尊敬する人物も登場しない。

 台風一過とはよくいったもので、この映画のクライマックスは台風である。台風が来ることによって、図らずも元家族が一晩を一緒に過ごすことになる。その過程で、情けない男の良多は少しだけ前を見られるようになるのかどうか。ラストシーンに干からびた傘が映る、そのメタファをどのように解釈するかは観客にゆだねられている。

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