機関紙編集者クラブ『編集サービス』紙に掲載した映画評のうち、自分のブログにアップしていなかった作品をさらえていくシリーズ」第8弾。
映画は役者二人の年齢が高くてちょっと渋めに決めすぎたきらいがある。中井貴一が嫁をもらうシーンが巻頭のほうにあるのだが、とても二十代には見えなくて苦しい。映画ではどうやら桜田門外の変のときの志村金吾の年齢を32歳にしたようだ。阿部寛は登場した瞬間に「ローマ人」と思ってしまうが、日本人だった(笑)。この人やっぱり長身でかっこいいです。
浅田次郎原作の短編を、詩情溢れる映画に仕上げた。原作と異なり、主人公は散切り頭にならず髷を結ったまま。明治時代になっても羽織袴に二本差しで、いつまでも江戸時代を引きずっている男、という点が強調されている。
桜田門外の変で主君井伊直弼を殺された彦根藩近習の志村金吾が、その後13年間も仇討ちを遂げるために犯人たちを追い続けるという執念の物語。むざむざと目の前で主君を殺されてしまった警護役の金吾は切腹も許されず、逃げた犯人たちの首級を挙げよとの命令を受ける。それから彼の苦しみの13年が始まった。禄もなく、生活費はすべて妻が居酒屋で酌婦をした金でまかなう。彼らは互いへの思いやりと温かみに満ちた夫婦として描かれている。いまどきの映画ならばもう少しフェミニズム的な要素があってもよさそうだけれど、そんな時代錯誤の時代劇は作らないようだ。
金吾は桜田門外の事件を何度も夢に見てうなされる。彼にとってはまさに悪夢であったその場面は映画でもどこか夢のように描かれている。確かにリアルに起きた事件なのに、何度も反芻するうちに幻のように変わっていく。
時代は明治に入り、廃藩置県もすんで彦根藩が存在しない。もはや仇討ちの目的が宙に浮いてしまったのだ。そのうえ、生きながらえた犯人の最後の一人の所在をようやくつきとめたその日、「仇討ち禁止令」が発布された。仇討ちそのものが犯罪として取り締まられることとなり、私刑は禁止されたのだ。ここから近代死刑制度が始まるわけだが、人と人との個人的な恨みの感情や懲罰の意識をも国家権力にからめとられていく、その時代に生きた人間の悔しさを垣間見ることとなる。
仇とて自分で見つけたわけではなく、これまた国家権力の一員たる警察官僚に情報提供されたのである。この映画は犯人捜査も処罰も近代国家の暴力装置を使わなければ目的は達せられないということを描いている。
一方、そういった権力の強大さや規制をうちやぶる、個としての思いが溢れているところが感動を呼ぶのだ。主君の仇討ちが生きる目的といいながら、実は主人公は「忠君」「大義」のために犯人を追いかけていたのではなかったことが判明する。そこがこの物語のよさだろう。
仇の武士も同じく13年間名前を変え、ひっそりと江戸の片隅で車夫として生きていた。これが阿部寛演じる、優しくて見た目の男ぶりもいい直吉。とうとう二人が相まみえ、直吉の引く車に金吾が乗るシーンの緊迫感がたまらなくいい。
大義と人情、復讐と許し、犠牲、さまざまに考えさせられる地味な地味な時代劇。じんわりとした感動が尾を引く。
桜田門外の変という政治クーデターがある日突然のように起きるが、実は大老・井伊直弼の周辺が危ないということはわかっていたのである。だからこそ志村金吾は剣の腕を買われて警護役として取り立てられたわけだ。この年の陰暦3月3日は現在の3月末にあたり、江戸では珍しく朝から雪が降っていた。この悪天候もまた伏線となって易々と主君を殺されてしまうこととなる。彦根藩の上屋敷は江戸城桜田門と目の鼻の先の距離、という油断もあった。災がおきてから人はなんでも反省するけれど、いくつかの災(害)は防げるはずのものであったことが多い。ついつい原発事故や先日の広島土石流災害を思い出してしまった。
119分、日本、2014
監督: 若松節朗、原作: 浅田次郎、脚本: 高松宏伸、飯田健三郎、長谷川康夫、音楽: 久石譲
出演: 中井貴一、阿部寛、広末涼子、高嶋政宏、真飛聖、吉田栄作、藤竜也、中村吉右衛門