吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

凶悪

機関紙編集者クラブ『編集サービス』紙に掲載した映画評のうち、自分のブログにアップしていなかった作品をさらえていくシリーズ」第7弾。

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 原作が淡々としたドキュメンタリーだったのに対して、映像の力というのは恐るべし、残虐なシーンもそのままリアルに画面に映し出されると、見るに耐えない。白石和彌監督は園子温監督と趣味趣向が似ているのか、「冷たい熱帯魚」の悪夢よ再び、とばかりに遺体を平然と切断したり燃やしたりする場面が出てくるのには参った。夏休みに家族一緒にどうぞと薦められる映画ではない。

 この「凶悪犯」というのがどうやって出来上がってきたのかを映画は描かない。「生まれながらの凶悪犯罪者」ジョーカーを描いた「バットマン」ならばそれでもよかったが、いちおう社会派なので、そういう描き方はできないはず。だが、そのあたりの説明をあえて映画は避けたのだろう。

 主人公は週刊誌の若手記者、藤井。たまたま取材に行くように命じられて死刑囚に面会したところ、驚くべきことに、表ざたになっていない殺人をあと3件犯したのだと告白する。しかも主犯格の人間がのうのうと娑婆で生きているのが許せない、と。死刑囚は元暴力団の組長だった須藤。彼の告白と手紙から、恐るべき犯罪が語られていく。その想像を絶する恐ろしい犯行の数々を映画は淡々と、そして不気味に描き出す。

 「不動産ブローカーとヤクザがつるんで殺人、なんて普通すぎて面白くない」と女性デスクが若い記者に投げつける言葉がすべてを物語る。そう、普通なんです、こんな話。たぶん裏の闇世界にはいくらでも転がっている話なのだろう。バブルが崩壊してもなおバブルの夢を追う金の亡者たちは、土地を転がして大もうけを企む。身よりのない老人を狙って殺害してはその莫大な資産を手に入れて行く。生き埋めも辞さず。気に入らない人間ならガムテープで簀巻きにして橋桁から突き落として殺しても平気。
 こうやって書いていくと、「普通に恐ろしい事件」というさらっとした文章が出来上がるが、これを映像で見せられると思わず目をつぶりたくなる場面が続出する。 

 狂気の沙汰の犯行に及ぶ凶悪犯の顔相を見せる須藤だが、囚われの身となった今では大変身を遂げて柔和な表情になっている。ピエール瀧が怪演していて、その落差もまた見所だ。さらにピエールよりいっそう不気味な凶悪犯、須藤から「先生」と呼ばれる木村を演じたリリー・フランキーが上手い。一見すると優男に見える木村が最も残虐で頭の切れる犯罪者であるところがホラー映画。 

 ここに描かれた鬼畜の仕業が全部「事実」だというから恐れ入る。原作は、死刑囚から犯罪を告白された『新潮45』の記者が丹念な調査で事実をあぶりだしていく過程が興味深く、記者自身の須藤に対する疑いや信頼などの揺れ動く心理が描かれていた点に面白みがあったが、かといって取材側の顔の見える作品ではなかった。映画化にあたって、取材する側を主役に据え、記者自身の家庭の事情も追加することによって現在日本社会が抱える暗部をえぐり出そうとした。その意気込みは買うが、どうもぴんと来ない。その原因は、残虐な犯罪の再現に熱心になるあまり、人間性の奥を覗くような脚本演出になっていないこと。また、主役以外は皆いい演技をしているのだが、いかんせん、主役の記者がいつも無表情で一本調子なのはいただけない。

 この映画には、イ・チャンドン監督の傑作「シークレット・サンシャイン」を想起させるような台詞がある。死刑囚が宗教心に目覚めて改心していく。ここはこの映画で秀逸と思われる場面だった。罪と罰と贖罪という大きなテーマを実際の事件を元に描くという意欲作であることには間違いないが、製作者が最初からある思い込みを入れてしまっているところがこの映画の最大の欠点。だが、凶悪事件を追うマスコミへの批判的な視点も含めていろいろお手盛りしようとした意欲は買おう。

 見終わって後味の悪さは格別だ。もうあまりこういう作品は見たくない。

128分、日本、2013 
監督: 白石和彌、原作: 新潮45編集部、脚本: 高橋泉、白石和彌
出演: 山田孝之ピエール瀧池脇千鶴リリー・フランキー