吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

裁かれるは善人のみ

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 タイトル通りの映画である。

 音楽がとてもよい。と思ったらフィリップ・グラスであったか、やはり。

 

 「湾岸部の再開発」を口実に、強欲な市長によって半ば強制的に立ち退きを要求されるコーリャは、自動車修理工場を経営する中年男。若く美しい後妻と、亡妻が遺した息子との三人暮らしだ。決して大きくない家は海辺に向かって大きな窓を取った明るい家で、妻のリリアがいつも清潔に保っている。だが、思春期の息子ロマは何かとリリアに反発する。

 つつましやかに暮らす三人一家に暗雲が垂れ込める。裁判で負けたコーリャは市長に家と土地を二束三文で取り上げられることになるのか。しかし、コーリャの友人で弁護士をしているディーマがモスクワから助けにやってきてくれた。ディーマはどこから情報を仕入れたのか、市長の悪行の証拠をつかみ、それをネタに市長を脅す。うまくいくかと思えたが、彼らの関係にも大きなヒビが入り、、、、


 ロシア北部のさびれた海岸にひっそりと建つ家がコーリャの住まいだ。広大な土地に人が暮らすというのはこういうことなのか。空き地だらけの中に廃墟となった教会跡があり、中学生たちのたまり場になっている。港には壊れて打ち捨てられた漁船が何艘も傾いたまま海面から顔を出している。極めつけはクジラの巨大な白骨死体だ。すでに肉はすべて腐り果て、博物館の展示標本がそのまま海岸に横たわっているような光景には度肝を抜かれる。こんな所に暮らしていれば、どんな人間も気持ちがすさんでくるだろう。美しいリリアがこの寒村を出てモスクワに行きたいと願うのも首肯できる。


 リリアの寂しげな瞳が絶望に滲み、暗い海面を見つめるとき、悲劇の連鎖が極まる。酒浸りのコーリャにはもはや未来はない。誰もかれもがわが身の保身と欲望に身もだえする。それは、この国が長い間にため込んだ澱とともに一層濁りを増し、悪臭を放つ。神父も空しい説教を垂れる。権力も宗教も強欲の塊と腐敗の温床となる。

 悪人はどこまでも悪人で、その悪人に翻弄される小市民とて決して底なしの善人というわけではない。ささいなことで怒りを爆発させて息子を殴ったり、妻に暴力を振るうような人間なのだ。

 それにしてもこの映画の登場人物たちはやたらとウォッカばかり飲んでいる。それもストレートであおるように。市長などは登場した瞬間から足元がふらついているし、誰もかれも酔っ払いの演技がうますぎるものだから、本物の酒を飲んでいるのではないかとわたしは疑いの目を向けてしまった。

 この映画の圧倒的な力は寂れ切った風景がもたらす。怠惰な人々が放置した廃船も廃墟も巨大な骨も、この土地にはもう立ち上がる力などないのだと告げるかのようだ。

 ロシアの歴代政治家の大きな肖像画が庶民の標的となるのは苦笑を禁じ得ない。レーニン、ブレジネフ、ゴルバチョフが射撃の的にされるとは。エリツィンに至っては小物すぎて的にすらさせてもらえない。その一方で、市長の執務室にはプーチン大統領の写真が大きく掲げられている。政治的風刺はユーモラスであり、宗教者のきらびやかな衣装は虚飾の臭いがする。だがこの映画がこのように描いた権力の腐敗もストーリーもありきたりで、さして惹かれるものはない。ストーリーよりも、ロケ地をこのような土地に選んだことこそがこの映画の成功の源だ。映像の力を見せつける作品。

LEVIAFAN
140分、ロシア、2014 
監督: アンドレイ・ズビャギンツェフ、脚本: アンドレイ・ズビャギンツェフ、オレグ・ネギン、撮影: ミハイル・クリチマン、音楽: フィリップ・グラス
出演: アレクセイ・セレブリャコフ、エレナ・リャドワ、ヴラディミール・ヴドヴィチェンコフ、ロマン・マディアノフ、セルゲイ・ポホダーエフ