カンヌ映画祭大賞にノミネートされた、ダルデンヌ兄弟監督の最新作。
ある金曜日、病休から復職しようとしていた矢先のサンドラに電話がかかってくる。会社は彼女をクビにして、十六人の従業員たちに千ユーロ(十三万円)のボーナスを出すことにしたという。彼女の解雇は週明けの投票で決まることになった。サンドラは同僚宅を一人ずつ訪ね歩いて自分の解雇に反対票を投じてくれるよう説得して回ることを決意した。サンドラの長い週末が始まる。
相変わらずのダルデンヌ節。いつもの手持ち、接写アップ多用のカメラは相変わらずだが、「息子のまなざし」の時のような極端さはない。BGMなしもいつもの通りだが、BGMの代わりにカーステレオから流れてくる歌が2回、暖かく明るい気持ちをサンドラに与える。映画内BGMがない作品のなかでこの曲の使い方が実に効果的だ。
舞台がベルギーだとすれば、社会保障が行き届いているのだから、失業に対してそれほど深刻な不安はないと思えるのだが、、、
サンドラの働く工場には17人しか従業員がいない。零細企業を舞台にしたことがこの作品のミソで、従業員たちのなかに何人も移民がいる。
なぜ労組を結成して闘わないのか。あるいは既存の労組に駆け込まないのか。何度も繰り返されるたった一人の「説得工作」を見ながらわたしは不審に思う。しかしやがて、「これは寄る辺なき女の孤高の闘いなのだ」と気づき、その自立心に感動していく。「寄る辺なき」「孤高」と書いたが、実は仲間がいる。彼女を支える夫、可愛い子どもたち、励ましてくれる職場の友人。
今まで一緒に働いてきた仲間なのに、サンドラは彼らの境遇を知らなかった。一軒ずつ訪ね歩き、家族と話し、本人に「ボーナスを諦めてわたしを失業から救って」というたびに同僚たちの生活苦を知る。今までこの工場では仲間の「連帯」や交流が希薄だったのだろう。やっと今、サンドラは自分の「仲間」の存在に気づく。
繰り返しがこの映画の特長だ。週明けの投票に向けて、自分のために賛成票を投じてくれ、と同僚たちを説得して、回るサンドラは何度も何度も同じ台詞を繰り返す。淡々とその場面の繰り返しがとても長く感じて観客は退屈してくる。しかしここに絶妙のリズムが生まれる。同じことの繰り返しを手持ちカメラで映して行くだけなのに、いつのまにか観客はサンドラの繊細な心に寄り添い、泣き崩れたり諦めたりめげたりする気弱な彼女とともに自分が居ることに気づく。また同じ事を繰り返すのか、と思うけれど、訪ねていく先の同僚たちの生活はさまざまだ。彼らの反応、答えもさまざま。同じ場面を繰り返していくうちに観客の呼吸に合わせるように場面が変わり、明るい週末の空が映り、カメラとサンドラの距離も変化する。観客を飽きさせない工夫が見られる。
期限は2日だけ。タイムリミットのある設定なので、「週明けの投票に間に合うのか」という危機感が徐々に募ってくる。最後はいったいどうなるのか、サンドラの説得工作は奏功するのか、というスリルすら味わえる。こういうストーリー展開はダルデンヌ兄弟の映画の中では珍しい。
メソメソと泣きながらも最後まで諦めず、説得工作を続けるサンドラは弱くもあり強くもある女性だ。そんな彼女の疲れた表情を接写するカメラは観客の感情移入を促す。「わたしの雇用確保のためにあなたのボーナスを諦めて」などとひとに頼むのはとても勇気がいることだ。わたしならできないだろう。その説得がどれほど精神的な負担になるか、想像にあまりある。ここで問われているのは「仕事にありつく」という経済的な問題だけではなく、「人としての尊厳」である。自分は必要とされている人間なのか? そうではないのか? 職場のなかで自分は孤立していたのか? 人望があるのかないのか。サンドラの週末は彼女自身を取り戻していく2日間でもある。
常に弱者に目を向けてきたダルデンヌ兄弟の作品は、今回初めて「闘う女」を描くことに変わった。この作風の変化にはしかし、やはりダルデンヌ兄弟らしいひねりが加えられている。労組を結成して力強く闘うのではなく、個別労使紛争に一人で立ち向かう、か弱い人間のギリギリの闘いとして描いた点だ。
繊細なサンドラを演じたマリオン・コティヤールが素晴しい。髪をひっつめにして無造作にくくり、ノーメイクで軽装。およそ美しくない女優として登場するが、最後に彼女が見せる表情がさわやかで凛々しい。(機関紙編集者クラブ『編集サービス』誌に掲載した文章に追加)
DEUX JOURS, UNE NUIT
95分、ベルギー/フランス/イタリア、2014
製作・監督・脚本: ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ
出演: マリオン・コティヤール、ファブリツィオ・ロンジョーネ、クリステル・コルニル、オリヴィエ・グルメ、カトリーヌ・サレ