吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

ある過去の行方

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 「彼女が消えた浜辺」で戦慄したアスガー・ファルハディ監督、続いて「別離」でも完成度の高さにうならされた。こうなると次の「ある過去の行方」に対する期待度が高まりすぎて困る。ハードルが高いから、少々の作品では納得できなくなってしまったよ、この人に関しては。なので、前半、物語の駆動力が弱くてちょっとイライラさせられてしまった。しかし、後半に行くにしたがって登場人物たちが心に秘めた苦しみが小出しにされていき、そのちょっとした謎が複雑にからまりあっていく様子に「さすが」と、脚本の練りこみ方に感動する。 

 オープニングの空港の出迎えシーンは見事だ。男が空港のゲートにやってくる。それをガラス越しに出迎え見ている女。カメラは、女に気づかない男の横顔を追い、女が懸命に何かを叫んでいる様子を映し出す。ここでもう観客は不安にかられる。「この二人はいきなり出会いそこねている」と感じるからだ。ほどなく男は女の視線に気づき、二人はガラス越しになにやら合図を出し合っている。お互いの声は聞こえない。と思うとあっという間に土砂降りの雨が降る屋外へ。車にあわてて飛び乗った二人が、髪についた雨をふき取ろうとする車内の場面、独特のエロスが漂う緊迫感が素晴しい。「何か」をこの二人の間に嗅ぎ取った観客に、畳み掛けるように二人の会話が重なる。どうやら彼らは恋人どうし、といった甘い関係ではなさそうだ。やがて徐々に彼らの関係が判明するのだが、ここからが複雑でわかりにくい。男は祖国イランから4年ぶりにフランスに戻ってきたアーマド。女は彼の妻、マリー=アンヌ。正式に離婚手続きをとるためにアーマドはマリー=アンヌの求めに応じてフランスにやってきたのだった。マリー=アンヌにはアーマドの前の夫との間に2人の娘がいて、今はさらに新しい恋人の連れ子、5歳の男の子も一緒に育てている。結婚離婚を繰り返すマリー=アンヌの複雑な家族関係が把握できるまでに多少もどかしい展開が続く。

 

 この家族には都合3人の子どもがいて、その子ども達がいずれも大人の顔色を伺うようなそぶりを見せるのが痛々しい。離婚によって傷つく子どもたちの様子が胸に迫る。長女リュシー16歳が家出を繰り返すのは、単に反抗期だから、ということではない「なにか」があったからなのだ。その「何か」がわかってきたとき、小さな罪におののく少女の苦しみが、また別の女の苦しみと共鳴し、大きな悲劇を生んだことが明らかになる。 

 あくまで家族の物語に執着するファルハディ、前回の「別離」が一組の夫婦の離婚をめぐって明らかになる彼らの矛盾、という設定だったのが今度の作品でも踏襲されている。とはいえ、謎解きのサスペンスは確かに観客を画面にひきつけるが、この映画の魅力はむしろ「真相は何か」を探ることにあるのではなく、真相はいくつも存在するということを切なくも明らかににしたことだろう。愛はひとつではない。夫婦の愛、新しい恋人への愛、断ち切れない元夫婦の愛情、そして憎しみ。子どもたちも実の親への愛情と、血のつながらない親への思慕との間で揺れ動く。リアルな世界では、何事もひとつに割り切ることなどできないのだ。この物語が家族の不和を描きながらそれを超えて普遍性を宿しているのは、この小さな世界で展開するすれ違いや誤解や嘘や不安や小心や自己保身が仕事や政治の世界にまで拡大できるような細部のリアリズムを有しているから。

 

 ラストシーンの一筋の涙にこめられた未来への一滴の希望は、消え散るのか形を変えて生き続けるのか。結論は出ない。誰にも出せない。皆がそれぞれに一筋縄ではいかない愛情を抱いているから。 

LE PASSE

130分,フランス/イタリア,2013

監督・脚本: アスガー・ファルハディ,製作: アレクサンドル・マレ=ギィ,音楽: エフゲニー・ガルペリン、ユーリ・ガルペリン

出演: ベレニス・ベジョ、タハール・ラヒム、アリ・モサファ、ポリーヌ・ビュルレ、サブリナ・ウアザニ