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吟遊旅人ピピのシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。感謝。

ハンナ・アーレント

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ローザ・ルクセンブルク」でバルバラ・スコヴァを見て以来、あっという間に26年が経っていたことに気づいたのは、彼女の姿を一目見た瞬間のこと。「うわ、おばさんになってる」

 わたしは26年前に見たはずの「ローザ・ルクセンブルク」よりも、本作により深い共感を抱いた。アーレントが語る言葉の力強さに感銘を受けたからだ。

 

 映画は、1960年にアルゼンチンでアイヒマンがイスラエルモサドに拉致されるところから始まる。翌年イスラエルで裁判が始まった。そのころ米国への亡命20年を超えていたハンナ・アーレントイスラエルでの公判の傍聴を希望する。そして『ニューヨーカー』誌にルポを掲載することを約束していた。愛する夫にキスとともに送り出されたハンナは、裁判を傍聴して、被告アイヒマンが自分の想像していた人物とはかなり異なることに衝撃を受ける。そして、アイヒマンが特別な悪人ではなく、凡庸な悪人に過ぎないこと、誰もがアイヒマンになる可能性があること、彼は粛々と自分の仕事に忠実に従っただけの役人に過ぎないと看破した。さらには、ユダヤ人指導者の中にはナチスに協力した者たちがいたことも明らかにした。ハンナの主張にはユダヤ社会から非難が轟々と沸き起こり、大学でも解職の宣言を受けてしまう。親戚や友人たちからも総すかんを食らったハンナだが、自分の主張を決して曲げようとはしなかった。

 この映画は、ハンナをめぐる人々の物語も少しずつ、だが多彩に描かれている。観客は予めそれらについて知識がなければ面白さが半減するだろう。特に、ハイデガーの存在は過去の回想場面でちらりちらりとほのめかす程度にしか描かれないのが個人的には不満に思う点だ。

 この映画を見ながら思い出していたのは、映画「ヒトラーの審判アイヒマン、最期の告白」であり、『アイヒマン調書』であり、『アーレントハイデガー』であり『アーレント=ハイデガー往復書簡 : 1925-1975』であった。アーレントの『イェルサレムのアイヒマン : 悪の陳腐さについての報告』については、ちっとも面白いと思えなかったので、ほとんど記憶に残っていない。アーレント自身が書いた本よりもよほどこの映画のほうが面白い。 

 バルバラ・スコヴァの貫禄ある演技により、この映画のハンナはとても魅力的だ。知的で、やさしく、寛容で力強い。とりわけ最後に、講義の形を借りて、自らの論に対する非難への反批判を行う演説が圧巻。そして、彼女の「わたしはひとつの民族だけを愛することはしない」という主張にいたく感動した。彼女はユダヤ人であったがユダヤ民族主義者ではなかった。その点は、親友だったハンス・ヨナスとは異なる点だった。ヨナスがあのように強硬な民族主義者だとは知らなかった。彼の書く物から受ける印象とは随分異なる。映画ではハンス・ヨナスと決別したかのように見えるが、事実は後にヨナスとアーレントは和解し、再び交際している。

 今こそアーレントを知り、アーレントに学ぶ必要があるのではないだろうか。東アジアのナショナリズムは、日本・中国・韓国いずれの国においても平和への脅威だ。アーレントが「考えることをやめることが最も悪いことだ」と述べ、思考停止こそが悪だと強調したことを忘れてはならないだろう。そして、ユダヤ民族主義に対する冷静で内省的な視線を保っていた彼女の知性を、真のユダヤ的知性だと賞賛したい。未読の主著『全体主義の起源』と『人間の条件』を読んでみたい。

 ところで、アーレント、煙草吸いすぎ。講義中にさえ吸うとは、すごい時代だったものだ。男子学生が恭しく煙草盆アーレントに差し出すシーンのユーモラスなこと。細かい点に神経の行き届いた作品である。

 この映画は、わたしにとっては30年ぶりに「教え子」との再会を果たすことになった作品として思い出に残るだろう。かつてわたしが家庭教師をしたNちゃん、すっかり大きくなって。いや、もうすっかり中年の落ち着いた女性になっていた。彼女が映画の終わったあとにもらした「笑えへん映画は久しぶりに見たわ」という言葉が印象に残っている。 

 

 本作でやや戯画的な扱いを受けているハンス・ヨナスについては、我が畏友、ヨナス研究者の品川哲彦さんに語ってもらいます(品川さんは本作を未見)。 

<2014.10.24追記>

 品川哲彦さんがその後、本作をDVD鑑賞され、感想コメントを寄せてくれましたので、先に掲載していた<未見段階でのコメント>を削除し、差し替えました。以下、長文ですが読み応えたっぷりです。

 映画「ハンナ・アーレント」について

 2014年10月6日 品川哲彦

 1.あらすじ

  この映画(監督・脚本はマルガレーテ・フォン・トロッタ、主演はアルバラ・スコヴァ、二〇一二年)の大筋は、およそこんなふうにまとめられるでしょう。

  特定の陣営に属すことなく孤独な思索を志ざしている哲学者アーレントが、アイヒマン裁判を傍聴した記事を雑誌「ニューヨーカー」に掲載する任務をみずから買って出て、アーレントユダヤの生まれであったにもかかわらず、裁判がアイヒマン個人の罪を証拠立てるものではない証言によって極悪ナチスを裁く政治ショーと化していることを批判し、むしろアイヒマンに「自分で考えることをせずに命令だけを完遂する小役人」を見出し、それを「悪の凡庸さ」と表現する。しかし、この解釈は、ユダヤ人が受けたホロコーストをどこにでも起こりうる悪と同列においたという印象を(とくにユダヤ人の同朋に)与えてしまった。そのために、裁判の傍聴が決まったときには「(在米の)ユダヤ人の代表」として熱狂的に送り出した勤務先New School for Social Research(1)の同僚たちやユダヤの友人たちから、さらには見ず知らずの人々からバッシングを受ける。さらには、国家としてのイスラエルから派遣された公職に就いている、もとシオニストとしての知人からは発言をやめるように圧力をかけられる。アーレントが家族のように思っていた在イスラエルのクルト・ブルーメンフェルト(2)からも彼の病の床でアーレントは拒絶される。ついには、New School for Social Researchの同僚たちからは馘首をほのめかされるまでにいたる。ところが、その同僚たちに「学生が私を待っている」と言い残して始めた講義のなかで、アーレントがアイヒマン裁判について語ると――悪の凡庸さと、悪の凡庸さゆえにアイヒマンは裁かれるべき存在であること、ホロコーストは人類にたいする罪(3)であり、というのも、ユダヤ人は人類に属しているのだから、等々――、学生たちは好意的な反応をし、アーレントを放逐しようとした同僚は不利を悟った面持ちで講義室を去る。以上の大筋としては、「世間の圧力に抗って、先入見にとらわれずに孤独な思索を続けて真理を発見したアーレント」という像を伝えようとする映画です。(最後の講義の場面で、その孤独な思索をきちんと受け止める若い世代を登場させることで、映画制作者はこの映画の女主人公を賞賛しつつ慰藉し、かつまた未来への希望を語っているようにも受け取れます)。

 以上の大筋を考える背景として無視できない要素があります。ひとつは、アーレントハイデガーの関係です。アーレントの孤独な思索が、アーレントを愛人とした師ハイデガーの講義のなかのことば「思索は孤独な営みである」を受け継ぐものであることが示唆されます(学生時代の過去の情景が何回か挿入されます)。しかし、ハイデガーフライブルク大学総長としてナチズムに協力しました。戦後、ハイデガーアーレントが邂逅する場面があります。(この場面はアーレントへのバッシングの場面の前に挿入されますが、この筋の運びはアーレントの生き抜いた態度をこの邂逅の場面でのやりとりから理解できるようにする意義をもたせているのでしょう)。そのなかで、ハイデガーが「昔と同じようだ」と(つまり、ナチズムの支配以前の教師と学生かつ愛人という関係がハイデガーにとってはそのまま続いているように思えるのでしょう)語るのにたいして、アーレントは彼のナチズムへの協力にふれずにはすまず、「思索は孤独な営みであると教えてくださった方があのような行動をとられるとは信じようもなかった。あなたは説明する責任があります」という趣旨のことを述べます。これにたいしてハイデガーは「私は政治ということがわかっていなかったのだ。私はさらに思索を続けていきたい」という趣旨のことを答えます。 

 もうひとつは、ともにハイデガーのもとで学んだハンス・ヨナスの役回りです。最後の講義場面で、聴講者たちが立ち去った講義室に、アーレントはヨナスを見つけます。アイヒマン裁判の見解で友情が失われかけていたヨナスを見て、アーレントは喜ぶのですが、ヨナスはアーレントの講義の内容に打ちのめされたようすでこういう趣旨のことを述べて去ります。「君にはユダヤホロコーストの問題がわかっていない。君は『思索』によってあのことを説明してしまう。しかし、その態度はハイデガーと同じだ。ハイデガーの愛弟子、さようなら」。アーレントはそのことばに傷つくのでしょうが、映画はすぐにその後に、アーレントが夫ブレッヒャー(4)に「友人は選ぶべきだわ」という場面をつなげることで、大筋の説明のなかで示したように、「孤独な思索を続ける哲学者アーレント」を印象づけます。

 (1)  この大学自体がドイツからアメリカに亡命してきたユダヤ人を教員として採用した学校です。なお、冒頭に記したように、アーレントは特定の陣営に所属しない哲学者として、ここで講義を担当しつつも、いわゆる大学人としての安定した地位には安住する人間ではなかったわけです。そのことは、「ニューヨーカー」編集部のスタッフのなかでのアーレントの評価の違いにも関係しないわけでもなく、一方に、「今世紀最大の政治哲学者」のようにいい、彼女の原稿をすぐに引き受ける編集長がおり、他方に、ジャーナリストの売り込みのように否定的にとらえる女性編集者が出てきます。のちに記すように、そういう細部で、この映画はそれほど単純に人物を描いているとはいえません。 

(2)  映画では十分に説明されていませんが、アーレントユダヤ人のパレスチナへの脱出を援助する仕事(つまりシオニズムを根拠とする仕事)をしていたときに知り合った年長の知人です。

 (3)  映画のなかで、アーレントがドイツ語では「人道(Menschlichkeit)にたいする罪」と「人類(Menschheit)にたいする罪」とが区別できるが、英語humanityではが区別できないといっているところがあります。ここは『イェルサレムのアイヒマン』にも記されていることで、きちんと取り入れられていると感じました。 

(4)  夫ブレッヒャーが他に愛人をもつ異性関係に奔放な男性であることは映画のなかでも描かれており、アーレントの友人メアリ・マッカーシーアーレントの寛容さを批判しますが、それにもかかわらず、アーレントとブレッヒャーは愛し合っているというふうに描かれます。当初はアイヒマン裁判にアーレントが派遣されるのを「裁判での実態解明を知ることで傷つく」ことを恐れて反対したブレッヒャーが最終的にはアーレントの理解者として描かれていきます。

 

2.私が感じた疑問点 

 この映画は、大筋に説明したように、一貫したアーレント像を描きだしながら、しかし、かなり多義的な解釈を可能にする素材も伝えており、その意味で、見ごたえのある映画だと思いました。 

 ただ、私には、若干腑に落ちない要素がありました。それは「多義的な解釈を許す」ととっていいのか、「映画製作者の趣意があいまいである」ととっていいのか、迷う箇所があるという意味です。私はけっして映画愛好家ではなく、ここ数年、映画をみるといえば、国際線の機内でしかありません。この映画も、二〇一四年三月にドイツに出張したおり、私の搭乗した飛行機のなかでみたのです。したがって、「映画の見巧者」として気付いたという話ではありません。しかし、まあお話してみましょう。 

 私にとってあいまいにみえた点は二つあります。 

 ひとつはハイデガーの描き方です。上のまとめからすれば、「思索とは孤独な営みである」と教えたハイデガーは、ナチズムへの協力という、まさに衆に同調する動きに加担しており、しかも戦後においてもそれについての説明をなしえていないのですから、この映画の解釈としては、「師ハイデガーは孤独な思索を徹底することができなかったが、アーレントはそれをなしえた」というメッセージを伝えたいのだと取るのが自然のようにみえます。しかしながら、それほど明確なメッセージが伝えられたともいえません。そこには、ハイデガーアーレントの尊敬し愛した人物であるという事情があるのでしょう。しかし、そのことを伝えようとしているとしても、そのメッセージも明確ではないのです。つまり、登場人物ハイデガーの描き方があいまいだという印象をもちました。アーレントハイデガーの関係、あるいは、ハイデガーアーレントそれぞれの生き方に多義的な解釈がありうるというメッセージであるなら、映画として欠点ではなく、むしろその映画の奥深さを示しているように思います。しかし、今指摘しているのは、そういう意味での多義性ではなくて、むしろ何を伝えようとしているかについてのあいまいさです。 

 もうひとつはヨナスの描き方です。実は、そのヨナスについて私が研究していることを知っている幾人かの知人や友人から、その映画とそこに描かれたヨナス像について情報をいただいておりました。そのなかには、「なに、あのおっさん」というある女性の感想も入っていて、どうやらあまりよい役回りに描かれているふうではなさそうに予想されました。実在の人物ヨナスはアイヒマン裁判に関する報告をめぐって、彼が二一歳、アーレントが一八歳のときにマールブルク大学の学生として知り合った頃から(第二次大戦による十五年の中断をはさんで)三七年になる交わりを断ちました。その交わりはのちに復活するものの、映画のなかでは、主人公アーレントに最も近い位置にいながら無理解な態度をとったひとりとして、登場人物ヨナスが描かれていることは想像にかたくありませんでした。それゆえ、幾人かの話を聞いたり、この映画についての新聞の講評を読んだりして関心をかきたてられながらも、私はあまり食指を動かされませんでした。私が関心をもつのは、実在のハンス・ヨナスとその思想であって、映画の登場人物ではないからです。 

 さて、映画を見ると、やはり登場人物ヨナスは、登場人物ブレッヒャー(アーレントの夫)の挑発にのりやすく、ブレッヒャーがアーレントにそう語る場面があるように、アーレントに恋して望みをかなえられなかったひとりとして描かれています。映画の末尾の登場人物アーレントの「友達は選ぶべきだわ」という台詞の「友達」という言葉で観客が直前の講義の場面でアーレントにたいする失望を口にするヨナスを連想するのは自然な成り行きですから、いわば、引き立て役の役回りであるわけです。もちろん、主人公を明確に描き出すために、実在のモデルがいる登場人物を引き立て役にすることそれ自体は映画作品として問題ではありません。 

 しかし、登場人物ヨナスが最後に語る「君はハイデガーと同じだ」というセリフの意味は依然として多義的です。多くの観客は、ヨナスがユダヤ人の友人のひとりであるという背景から、ヨナスの怒りを「アーレントユダヤ人に起きた特別なできごとであることを平板化した」という怒りにとるでしょう。登場人物ヨナスは「君はドイツ人と同じだ」ともいっているのですから、映画製作者はこの解釈を促しているようにもみえます。だが、それを進めてしまえば、New School for Social Researchの若手同僚のユダヤ人がアーレントを「ナチ」呼ばわりしたのと同列の発言をヨナスがしたととってしまうことになるでしょう(ちなみに、上記の若手同僚の発言には、登場人物メアリ・マッカーシーが「ハンナはナチスによって拘留された体験をもつのに、個人的な怨恨ではなく冷静に客観的に事態を分析して『悪の凡庸さ』をとりだしたのだ。あなたはナチズム支配下で抵抗した世代でもないのに、ユダヤ人に起きたできごとというので感情的に反応している」と批判します)。しかしながら、映画制作者が、ヨナスが無理解なユダヤ人仲間と同列の反応をしたと描きたいのであれば、登場人物ヨナスの最後の発言は「古い友人でさえアーレントを理解しなかった」というメッセージのためだけに個別に登場したということになりそうです。そうとるとすれば、登場人物ヨナスは「ハイデガーはナチだ。アーレントハイデガーと同じだ。ゆえに、アーレントはナチだ」といったということになるでしょう。(これは実在するヨナスという哲学者をあまりに単純化してみせてしまうように思いますが、映画はフィクションなので、私はそのことそれ自体を問題にしようとは思いません。むしろ、問題は次です)。 

 ところが、「ハイデガーと同じだ」というセリフは(前述のハイデガーの描き方のあいまいさとも連関しますが)別の解釈も可能です。すなわち、「悪の凡庸さ」が「思索」であるということに批判が向けられたのだととることも不可能ではありますまい。その思索がどれほど思索としては、他人が気づかぬ深い次元に達しているとしても、ホロコーストで大勢のユダヤ人が殺されたということを思索によって説明するそのことが人間にたいする侮蔑に近い所業ではないかという問題の提起です。 

 私はこの解釈を映画制作者が促しているという証拠を見出せたわけではありません。しかしながら、「ハイデガーと同じだ」ということを、「孤独な思索を続ける哲学者として同じだ」と理解した場合には、まさにその「孤独」や「思索」ということが、ホロコーストという問題にたいして、そこで殺された人びとにたいして、あまりに超越的な、あたかも自分はけっして殺される側ではないかのような傲慢さをもっているという告発も可能なのです。私はこの解釈の成り立つ余地を映画制作者が与えなかったともいいません。というのは、やはり登場人物ヨナスの最後のセリフのなかには、「君自身だって殺されていたかもしれないのだ」ということばがあるからです。もし、そこを強くとるならば、たしかに哲学や思索はまさに哲学や思索としてホロコーストを考えるほかないとしても、しかし、そのように思索する者はいったいどのような立場に立ってそういうことをできるというのだという告発も成り立ちえます。 

 しかも、映画の登場人物ではなく、私がその著作をとおして知りえたハンス・ヨナスはそういう問いかけをまさにした人物に思えるのです(5)。 

(5)  これについては、拙訳『アウシュヴィッツ以後の神』(法政大学出版局、2009年)に収めた解説のなかの192-193頁に、ヨナスの論文「ハイデガーと神学」に関する論評、また、品川哲彦「技術、責任、人間――ヨナスとハイデガーの技術論の対比」(『Heidegger Forum』7号、ハイデガー・フォーラム、2013年、110-122頁、http://heideggerforum.main.jp/ej7data/shinagawa.pdf)を参照してください。 

3.大筋とは関係ないが心に残った場面 

 この映画のなかで奇妙に私の心に残った場面があります。それはイスラエルでアイヒマン裁判を傍聴したアーレントがブルーメンフェルトと話す場面です。大筋のなかでは、この情景はアーレントがアイヒマンに「モンスター」ではなく一介の事務職という印象をもったと告げる点で重要ですが、私の心に残ったのはそれに続く場面です。ブルーメンフェルトが冗談交じりにゲーテのことばを引用します。すると、ふたりの座っていたテーブルの隣にすわっていた男性が話のなかに割り込んできて、やはりゲーテのことばを引用するのです。男性の父親や仕立屋だったがゲーテが大好きで、ゲーテのことばをしょっちゅう引用していたという話が語られます。 

 この情景が私の心に残ったのは、イスラエルに住んでいるふたりの男性とアメリカに在住していたアーレントイスラエルで話をするのに使う言語がドイツ語で、しかも、その話の内容がゲーテだったからです。すなわち、ここにドイツの社会と文化を身に着けて成長したユダヤ人がそのドイツから逃亡するほかなく、しかしなおゲーテのことばを語るというところに、同化ユダヤ人という存在のありようを感じたからです。

 

HANNAH ARENDT

2012年、ドイツ、114

監督:マルガレーテ・フォン・トロッタ、脚本:パム・カッツ、マルガレーテ・フォン・トロッタ 、音楽:アンドレ・メルゲンターラー 

出演:バルバラ・スコヴァ、アクセル・ミルベルク、ジャネット・マクティア、ユリア・イェンチ、ウルリッヒ・ヌーテン、ミヒャエル・デーゲン