吟遊旅人ピピのシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。感謝。

アーティスト

 落ちぶれた役者を見事カムバックさせるバックステージものシリーズ3連続アップ! という企画を思いつきました。全然シリーズじゃないんだけど、要するにこの手のストーリーは掃いて捨てるほどあるということですな。まずは今年のアカデミー賞作品賞受賞作から。


 この映画を見て、映画ファンでよかったとつくづく思う。もう三ヶ月も前に見たんだけど、「ひかりのおと」の次に「アーティスト」、同じ<映画>というジャンルではくくれないほど味わいの違う作品だった。これは目指している方向がまったく異なるので、どちらが優れていると言えるようなものではない。しかし、映画に人生の悲しみも喜びも絶望も希望も描こうとした点では二つの作品は共通しているのだ。
 人は映画の中に人生を見る。映画と共に人生を生き、自らの生き様を重ねて笑ったり泣いたりする。愛しい人の面影を俳優の中に見つけては胸をときめかせたり切なくなったり。映画の本質は娯楽には違いないが、そこに容易に生き方を反映/感情移入できるという点ではこれほど優れたメディアは他にない。

 「アーティスト」はそんな、映画への愛とオマージュがたっぷり詰まった作品だ。モノクロのサイレント映画、主役のジャン・デュジャルダンクラーク・ゲーブルそっくり、役名がジョージ・ヴァレンティン(もちろんルドルフ・ヴァレンティノのもじり)、音楽はどこかで聞いたようなスタンダードの引用、とにかくオールドファンを懐かしさで泣かせるための映画みたい。


 本作は映画界がサイレントからトーキーへと移り変わる時代に、「僕はアーティストなんだ!」とあくまでサイレント映画に固執したスターが落ちぶれていき、逆に彼が見出した女優ベティがあっという間にスターダムにのし上がる、という栄枯盛衰の理を表した作品だ。落ちぶれたジョージをいつまでも愛し続けるベティの影ながらの献身が泣かせる。ベティのジョージへの恋心を描写する<背広の場面>が秀逸(右上の写真)。この背広はあとでまた生きてくるから、この映画は伏線を張るのがうまい。ほかにも、ジョージがベティを見出した<スクリーン越しの影絵>の場面も予告編に使用された名場面だ。
 自己言及映画というのはいくつもあるが、この映画には「芸術家」として作品にこだわればこだわるほど観客からはそっぽを向かれるという自虐が込められていて、監督自身の悲憤の声ではないかと苦笑しながら見た。と同時に、ジョージが「芸術作」と思いこんで作っている作品がとうてい芸術とは思えないチンケな映画なのも皮肉だ。

 これを見終わって随分経ってから、リュック・ベッソン監督のデビュー作に「最後の戦い」があったことを思い出した。やはりモノクロで台詞無し。「最後の戦い」は台詞無しでどうやって内容を観客に伝えたのだったか忘れてしまったが、このアーティストは昔ながらのサイレント映画のやり方を踏襲している。つまり、カットの間に台詞だけを挿入する、紙芝居方式みたいなもの。サイレントの最大の特徴は、分かりやすさではなかろうか。台詞場面を挿入することによって芝居の流れが中断されてしまうから、それを極力排除するために、パントマイムなどで台詞の代わりに映像で説明する。さらにその説明が理解しやすいようにストーリーは単純である。この映画も、落ちぶれた役者を見事にカムバックさせる、というよくあるパターンのストーリー展開。そこにロマンスをからめる、という王道もの。歌あり踊りありの、典型的なハリウッド黄金時代の映画だが、フランス映画なんですねぇ。


 サイレント映画ならではの演出の数かず、これはサイレントでなければこの効果は出ないだろう、と思われる場面の数々には「うまい!」と唸ってしまう。かといってこれがアカデミー賞を獲るほどのドラマ性やテーマの深さや斬新さのある映画だったかは疑問だ。これがヒットしたからといって二匹目のどじょうは狙えないと思う。


 カンヌでパルムドッグ賞を獲得した犬のアギーの名演はお楽しみ。

THE ARTIST
101分、フランス、2011
監督:ミシェル・アザナヴィシウス、製作:トマ・ラングマン、製作総指揮:ダニエル・ドゥリュームほか、脚本:ミシェル・アザナヴィシウス、音楽:ルドヴィック・ブールス
出演:ジャン・デュジャルダンベレニス・ベジョジョン・グッドマンジェームズ・クロムウェル