吟遊旅人ピピのシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。感謝。

メランコリア

 いっそ世界が消滅すればいい。何もかもが消えてしまい、人類はもろともに滅びる。大いなる災厄の渦中で中途半端に生き残ったりすれば、飢えと寒さに苦しんだあげく、欠乏の中で悲惨な最期を迎えることになる。それならば世界がすべて消えてしまえばどれほど楽だろう。「不在の現前」すら存在しない、完璧な無。
 ――この映画に感応する人間は不幸の中に生きている。

 オープニングの超スローモーションの美しさには息を呑む。惑星が地球に衝突する瞬間を捉えた雄大な映像は「ツリー・オブ・ライフ」を思い出させる。オープニングの美しさはトリアー監督の前作「アンチ・クライスト」と同じ。この映像の美しさに味をしめたのか、同じようにスローモーションでカタストロフィーを描き、バックにはクラシック音楽の名曲を大音響で奏でる。前回はバッハだった(はず)が、今回はワーグナーだ。全編に亘って「トリスタンとイゾルデ」の荘厳で美しく悲しい音楽が響き渡る。人類の終末は近い。その時を刻一刻と待ち受ける、最後の幕引きに向かうに相応しい選曲だ。そしてここでもブリューゲルの絵が。

 映画は二部に分かれている。第一部は「ジャスティン」、第2部は「クレア」。クレアは姉、ジャスティンは妹。第一部でジャスティンの結婚披露宴が開かれる。披露宴会場は山の上にあるクレアの大邸宅だ。クレアの夫、ジョンが大金をはたいて義妹のために盛大なパーティを開いていくれているというのに、ジャスティンは憂鬱な気分に囚われて、披露宴を台無しにしてしまう。


披露宴にはジャスティンとクレア姉妹の両親も招かれているが、親たちはとうの昔に離婚していて、いがみ合っている。シャーロット・ランプリングが、観客の肝を冷やすような台詞を平然と言ってのけるきつい母親を凄味たっぷりに演じている。ジャスティンは満面の笑顔でこの披露宴を迎えているように見えてその実、会場には2時間も遅れて到着するという失態を演じているし、豪壮な屋敷で開かれている優雅なパーティのはずなのに、画面には常に危機感が漂っている。
 その危機感を煽るのは美しく光る青い惑星、「メランコリア」。数週間後に地球に超接近してやがてすれ違って離れていくということだが、ネット上ではメランコリアが地球に衝突するという噂が流れている。

 第1部で不安定な精神状況を見せてクレアに慰められるジャスティンだが、第2部では惑星の接近に伴ってクレアのほうが徐々に平常心を失っていく。「メランコリア」はますます地球に近づき、その大きな姿を空に輝かせていた。クレアの不安と恐怖が画面を支配する。げっそりやつれて憂鬱のどん底にいたはずのジャスティンが徐々に冷静さを取り戻し、邪悪な生命は滅びればいい、と平然と言い放つ。姉妹の対照的な様子にからんでクレアの夫ジョンの泰然とした態度が気になる。妻クレアをいたわり、「惑星は衝突しない。通り過ぎるだけだ」となだめるジョンは、息子と共に望遠鏡でメランコリアを覗いたりして、いかにものんびりしている。いよいよ惑星が近づいてきたときには車で村へ降りて食料や燃料を買いだめしてきた。おそらく村はパニックになっているのだろうが、この広大な屋敷の中は静かで何事も起こっていないかのようだ。

 
 終末が近づく日々なのに、映画の舞台が人里離れた屋敷から出ないため、観客には外界の様子が一切わからない。姉妹は大きな屋敷で飼われている馬に乗り、野原を疾走する。実に優雅な日々だ。そしてとうとう、メランコリアが地球に再接近した。クレアが恐怖におののき、ジョンが絶望に打ちのめされる、という以外には何もパニックが描かれていない終末映画は、ただひたすら静かだ。最後のときを迎えることが、まるで解放へ向かう夜明けを迎えるかのよう。そしてやってくる最後の瞬間。巻頭でも描かれた惑星衝突のファンファーレが鳴り響く。あまりの美しさと壮絶さに息を呑む。この瞬間は必ず劇場の大スクリーンで見なければならない。その至福の瞬間を。
 
 記憶や記録を伝える相手もいない。過去も未来もない、時間も存在しない。そんな、完全な無に帰することができるならば、いっそ今日にでもこの惑星が消えてしまえばいい、と思う。すべてが消えてしまえば、あらゆる苦しみも消えてなくなる。自分ひとりの苦しみだけではない。「私」のことを覚えていてくれる人も一人もおらず、誰の記憶にも残らず、それどころか存在したことすら形跡も残らない。この完全なる無。

 『宇宙に生命は存在するのか』(マイケル ホワイト著、2001年)を読了したときの寂寞感を思い出す。この広大な宇宙に人類は孤独に存在するのだ。だとすれば、わたしたち人類がいなくなれば、宇宙には時間も存在しない絶対の無、絶対の空虚しかありえなくなるのだろうか。

 トリアー監督が鬱病に罹っていたときの経験をもとにして作られた、リハビリのための作品という、私的な映画でありながら、これほど美しく惹かれるものがあるのは、わたし自身が「死」に魅せられているからかもしれない。ここに描かれているのはトリアーにとっての理想の死。実際の死はこんなに美しくも潔くもない。

 大勢が亡くなったあの日から1年。生きたいと願っても叶わなかった人々の分まで、遺された命は精一杯生きねばならないのだろう。いずれやってくる死は、望んでも望まなくても、避けて通れない。死に向かって生きる、そのことの意味を今日もまた想う。

 「ツリー・オブ・ライフ」と似て非なる映画だとしみじみ。「メランコリア」、好きです。終末映画としては「パーフェクト・センス」とともに今年の私的ヒット作。

MELANCHOLIA
135分,デンマーク/スウェーデン/フランス/ドイツ、2011
監督・脚本:ラース・フォン・トリアー、製作:ミタ・ルイーズ・フォルデイガー、ルイーズ・ヴェス、製作総指揮:ペーター・オールベック・イェンセン、ペーター・ガルデ
出演: キルステン・ダンストシャルロット・ゲンズブール、アレキサンダー・スカルスガル、ブラディ・コーベット、シャーロット・ランプリングジョン・ハートステラン・スカルスガルドキーファー・サザーランド