吟遊旅人ピピのシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。感謝。

ブローン・アパート

 情事の最中に子どもが死ぬという映画なら「おはん」(市川崑監督、1984年)を思い出すが、全然そういう話ではなかった。「9.11後」というジャンルがあるなら、間違いなくその一つの作品。主人公の心理が丁寧に描かれ、共感を呼ぶ。

 主人公である若い母親には名前がない。彼女も、また彼女の息子も映画の中で固有名詞で呼ばれることがない。彼等は固有名を持たない存在として観客の前に立ち現れる。ミシェル・ウィリアムズ演じる若い母親は、警官である夫が爆弾処理班の仕事に疲れ果てているため、ほとんど夫婦の温かい会話もなく孤独を抱えている。そんな彼女は行きずりの男ジャスパー(ユアン・マクレガー)と一夜の情事を楽しむ。一度だけの関係だったはずが、ある日偶然再会した二人は再び関係を持ってしまう。しかし、その最中に息子と夫はサッカーのスタジアムに仕掛けられた自爆テロによって亡くなってしまう。自責の念にかられ、深い悲しみに落ちた彼女をジャスパーはなんとか励まそうとする。一方、夫の同僚警官も何かと彼女の世話を焼こうとするが…。

 

 新聞記者であり高級車を乗り回すジャスパーと、その向かい側の安アパートに住む若い母親とは、社会階層も学歴も違う。階級社会イギリスでは交わりにくい二人が、パブで出会って関係を持つ。二人の間の溝は、テロ事件によっていっそう際立つ。だが、ジャーナリストとしてジャスパーは事件の真相を暴く。物語は、二人のアバンチュールから母親の悔恨の心理ドラマへと、さらに警察の「陰謀」を暴くサスペンスへと展開する。若い母親がテロリストの家族に近づくことによって、彼らの間に横たわる大きな溝、「世界のこちら側とあちら側」が鮮明になると同時に架橋へと恐る恐る踏み出す契機ともなる。そう、この物語は9.11後の相互の憎しみをどうしたら乗り越えられるのか、を問うているのだ。


 喪失の苦しみ、そこから立ち直り生き直すためには何が必要か。「ビン・ラディンへの手紙」という形で母親の独白がつづるこの作品は、観客が母親であれば得心できるような細やかな描写が生きている。ただし、サスペンスやら恋愛やら警察の陰謀、憎悪と和解、といったテーマを盛り込みすぎて中途半端になってしまった点は否めない。期待しすぎると肩透かし、期待せずに見れば拾い物、といった作品。 

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INCENDIARY
100分、イギリス、2008
監督: シャロン・マグアイア、製作: アンディ・パターソンほか、原作: クリス・クリーヴ『息子を奪ったあなたへ』、脚本: シャロン・マグアイア、音楽: 梅林茂、バーリントン・フェロング
出演: ミシェル・ウィリアムズユアン・マクレガーマシュー・マクファディン、ニコラス・グリーヴス、シドニー・ジョンストン