吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

シルビアのいる街で

 視線の映画。監督自らが、「見ることを描いた映画」という。しかしこれ、ヒーローとヒロインが美男美女でなければ成り立たない映画だ。じっと画面を見続けていても飽きが来ないということは、人物の美的魅力も大きな要因となる。本作は映像と音で語らせる作品、という意味では実に映画的な映画だ。台詞など無きに等しい。少なくとも、前半3分の2ぐらいまでは台詞はほぼない。だから、巻頭15分ほどのカフェのシーンですっかり退屈する観客が続出しそうだ。というか、そんな観客はそもそもこの映画を見るべきではない。

 ロケはフランスの古都ストラスブールで行われた。この町並みが本作のもう一つの主役といえる。この作品は視線の映画であると同時に音の映画である。町の音、靴音、カフェのざわめき、路面電車の走行音、これらが町を楽しむ大きな要素となっている。


 物語は、一人の青年が宿を出てオープンカフェに行き、そこで周りの女性たちをスケッチする、というだけのもの。彼はスケッチブックに「シルビアの街で」と書く。カフェで何人もの女性を眺めている彼は、誰かを捜しているのだろうか。捜しているとしたら、それは「シルビア」か? やがてガラス窓越しにひときわ美しい女性を見つけた彼は、彼女の後を追いかける。「シルビア!」と後ろから声をかけるが、返事はない。それでもずっとひたすら青年はその美しい女性を追い続け……。


 美しい女を美しい男が追いかける。追いつ追われつの映画だが、視線はひたすら追う男のものだ。ほとんどストーカーまがいのこの行為を、ストーキング被害に遭った女性が見たら不愉快になるだろうなぁと思いつつ鑑賞。本作が美しいとか素晴らしいとかいう以前に、ストーカー犯罪が顕在化している現在、こういう映画を映画として消費することが不可能になるのではないか、という危惧がある。しかしまあ、そういうことは置いておくとして、この映画がしようとしたことは、観客の視線をいかに誘導するか、にあるだろう。見ているのは誰なのか。主人公なのか、女性なのか、観客自身なのか。視線は一貫して男のものだが、しかし見られている女性たち自身の視線とふっと交わるときがある。そして、追いかけられている「シルビア」の視線に入れ替わる瞬間があり、そこで初めて物語は動きを見せる。やっとここで観客は男の過去やシルビアとの関係についてのヒントを与えられるのだ。なぜ彼があのカフェに3日間通っているのかも分かる。分かるというか、分かる人には分かる、と言うべきか。台詞は極端に少ないから、男の心境や境遇は少ない台詞と変化する光と際立つ音から想像するしかない。


 光、風、窓ガラスに映る顔、鏡に映る姿、街、古い路地の曲がりくねった石畳も、すべてが計算されつくしたこの映画のために存在するかのようだ。街ごと、この作品への捧げ物であるかのような。惜しむらくはストーカーという設定。追いかけてくる青年があれほど美しくなければ、この映画を赦せないという気になったかもしれないが、イケメンなので赦す。


 6年前の愛の思い出に縛られている青年の切ない恋情と儚い夢がほろ苦く心に刻まれる。そして、ほんの少し、希望が見えたかのような微妙なラストシーン。あるいはまた、過去との決別が彼を未来に向かって歩みださせるのか。シルビアの町は、シルビアのいない町。


 それにしてもピラール・ロペス・デ・アジャラ、ほんとうに美しい女性だ。わたしが見てもうっとりしてしまう。あんな女性が目の前にいたら、彼でなくても追いかけてしまうかも。

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EN LA CIUDAD DE SYLVIA
85分、スペイン/フランス、2007
監督・脚本: ホセ・ルイス・ゲリン
出演: グザヴィエ・ラフィット、ピラール・ロペス・デ・アジャラ