吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

ミルク

 ショーン・ペンという俳優の演技の幅の広さに感心した。と同時に、ある意味、ゲイを演じるワンパターンをも感じた。これはわたしの偏見だろうが、「ゲイ」と一言でくくれない多様性がそこにはあるわけで、そのはずなのに、どういうわけか観客(であるわたし)はゲイのパターン化された表現(演技)を無意識に求めているのだろう。だから、ショーン・ペンがその通りに演じてくれると、「さすがはショーン、たいした役者根性だ」と感心すると同時に、「このステレオタイプはいかがか?」とわずかに眉をひそめる。かくも映画観客はわがままで求めるものが高いのだ。


 にもかかわらず、この映画がアカデミー賞主演男優賞と脚本賞を受賞したことは特筆に値するだろう。アカデミー賞の権威などあまり信じていないわたしでも、やはり一目置いてしまう。


 ハーヴィ・ミルク。アメリカ史上初めて同性愛者であることを公言して公職に就いた人。そして、50歳になる前にサンフランシスコ市長と共に暗殺された人。その、最後の8年を描いた物語。


 映画パンフレットによれば、アン・リーが監督した「ブロークバック・マウンテン」をガス・ヴァン・サントが監督する話もあったという(映画評論家江口研一氏による)。しかし、同じ同性愛者の監督といっても、アン・リーガス・ヴァン・サントでは政治的振る舞いが違う。これは適材適所だったのではないか? 情緒的な「ブロークバック・マウンテン」をアン・リーが監督し、社会派作品をガスが監督したのは正解だろう。ちなみに脚本家のブラックも監督ガス・ヴァン・サントも共にゲイであることを公言している。


 映画が始まって暫くは、男同士のキスシーンなど、違和感をぬぐえない場面が続出するため、やや引いてしまったが、やがてはミルクの不屈の闘志に惹かれてぐいぐいと画面に引き寄せられていく。落選してもしてもめげずにサンフランシスコ市政委員に立候補するハーヴィの姿には共感を超えて驚異すら感じる。弱者のために、というその態度には素直に共鳴できると同時に、彼がもしゲイでなければどのような生涯を送ったのだろう?とふと思う。社会的弱者という位置にいなければ、どうしただろうか?という疑念が払えない。日本では正規労働に就けない若者が年長世代を糾弾する論陣を張って耳目を集めているが、そういう若者たちは自分が貧困層から抜け出て金持ちになればたちまち保守化するのではないのか? 彼らは自分の貧乏が正規労働者などの特権のせいであると糾弾するが、では自分がもしその特権的正規労働者ならば、非正規の若者のために自分の場所を譲り渡す覚悟があるのか?


 そういった「気分的違和感」というか、「信用できるのかなぁ、ちょっと疑問」という軽い疑念を感じたのだが、いつのまにか、ハーヴィ・ミルクは自身のゲイという特質性を超えてもっと大きな問題を見据えていたのではないかという気持ちになっていた。


 意外だったのはレーガンが同性愛者への差別撤廃のために1票を投じていたこと。まだ彼は当時大統領になっていなかったが、保守派の重鎮として知られるレーガンが同性愛者への配慮を見せたことは意外であった。何か高等な深慮遠謀があったのかもしれない。


 社会的弱者・少数者への差別撤廃を求めたハーヴィの運動は大いに理解できるものだ。それは1970年代から1980年にかけて意義があった。その後の動きを把握する必要があるのでは? 素直というか、ストレートに作られた社会派映画なので、そこがこの作品の長所でもあり短所でもあるように思う。こういう映画を見るとなにか割り切れないというか、複雑な思いがしてうまく感想を表現することができないのはなぜだろう。


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MILK
128分、アメリカ、2008
監督: ガス・ヴァン・サント、製作: ダン・ジンクス、ブルース・コーエン、脚本: ダスティン・ランス・ブラック、音楽: ダニー・エルフマン
出演: ショーン・ペン、エミール・ハーシ、ジョシュ・ブローリン、ジェームズ・フランコ、ディエゴ・ルナ