吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

ベルサイユの子

 この子役、超かわいい、超天才。


 37歳で病死したギョーム・ドパルデューの遺作となってしまった本作、この才能が喪われてしまったことはほんとうに惜しい。父ピエールへの反抗心からか、少年のころから問題児であった彼の生き様を映したような本作には、演じる人としての役割を超えたものを感じてしまう。


 ベルサイユ宮殿のあのきらびやかで見事な階段の遠くに森がある。その森にはホームレスの共同体が存在している。このことがまず、この映画の元となっている。それはつまり大阪城公園や剣崎公園、天王寺公園などのホームレス村と同じことなのだろうか。広さの点では遙かに劣るが。ホームレスになって生きる青年ダミアンと、その森に迷い込んだホームレス母子は、一晩だけ共に過ごす。朝になると母は姿を消し、5歳の息子エンゾが残されていた。ダミアンは仕方なくエンゾを育てることになる。やがてダミアンはエンゾを社会に帰すべきことを悟り、エンゾを学校へ通わせるためにある決意をする…


 わたしたちの社会は、国家の庇護のもとに社会保障を要求すべきなのだろうか、それとも、自助努力のもとに共同体が子ども達を養育し社会を構成すべきなのか? しかし、後者の答を是とすべきほどにはこの社会は小さくもなければ単純でもない。もはやわたしたちは国家なしでは生きていけない。と同時に、国家なく生きていける方途も又模索すべきなのだろう。この映画は、国家の責任について静かに追及していると同時に、家族という私的領域の再生についても考えさせる契機を含む。新たな形式の家族を模索すべきなのか、それとも?  しかし、いずれにしても必要なのは「家族」なのだろうか。血縁がもはや機能しなくなった(かもしれない)家族よりは、愛にのみ基づく共同体(≒家族)が存在してもいいのではなかろうか。

 
 この映画の厳しさはなんなのだろう。子役の愛らしさに比べて、描かれる現実のあまりの冷たさ厳しさには、監督の冷厳な目を感じる。本作が長編第1作というピエール・ショレール監督、なかなかの腕前です。撮影監督が「レディ・チャタレー」のジュリアン・イルシュだったとは驚き。前作での明るく柔らかな森の光と一転、今度の作品は暗い森を映す。暗い森の中に燃える焚き火の明かりが印象的。


 ちなみに、中之島公園一帯は改装工事がおぼ終わって、ホームレスのテント村は綺麗さっぱりなくなってしまった。あの人たちはどこへ行ったのだろうか…。

VERSAILLES
113分、フランス、2008
監督・脚本: ピエール・ショレール、製作: ジェラルディーヌ・ミシュロ、撮影: ジュリアン・イルシュ、音楽: フィリップ・ショレール
出演: ギョーム・ドパルデュー、マックス・ベセット・ドゥ・マルグレーヴ、ジュディット・シュムラ、パトリック・デカン