吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

息もできない

 この映画はおそらく来年の初春には、日本でも多くの映画賞を受賞しているだろう。決して「感動した」とか「見て良かった」と思えるような作品ではない。わたしが好きな種類の映画ではないのだが、それでも深く心に残る余韻を残す<傑作>だ。


 わたしの記憶に残るもっとも古い映画は、たぶん4歳のときに父に連れられて見た日本映画だ。タイトルもストーリーも覚えていないが、最後に女の人が自動車に轢かれて死んだことだけは覚えている。さんざん苦労して、これからやっと幸せになれると思った途端にヒロインは死ぬのだ。ヒロインが道路に飛び出し、自動車が猛スピードでやってくる、その次の場面では黒い煙が上がっている。子どものわたしにはどういうことなのかわからなかったが、女性が死んで焼き場で灰になったのだった。なにかとても理不尽な気がして父に尋ねた覚えがある。「あの女の人はどうなったの?」「死んでしもたんや」「なんで?」


 なんで、なんで、なんで? このとき、おそらくわたしはこの世の不条理を知ったと思う。4歳にしてえらくませた子どもだったようだが、悲劇というのはこういうものなのだ。4歳の子どもだって、胸を引き裂かれる思いにとらわれることはあるし、生涯忘れられない切ない思いを抱くことがある。これがわたしの映画原体験。「息もできない」を見て、この原体験を思い出した。



 この物語の主人公は、暴力だけを養分に育ったような男、サンフン、30代。彼と、恋ともいえないような繋がりを紡ぐ女子高生はヨニ。二人は偶然町ですれ違った、その出会いの瞬間から互いを都会の中の孤独な絶望と共に生きている<仲間>であると嗅ぎ取った。どちらも壮絶な家庭内暴力のもとに育ち、貧困の中であえぎ、明日をも知れぬ毎日をただいたずらに生きている。年の差を超えて、二人が互いの中に見つけたものは何だったのだろう。サンフンは暴力と恐喝で借金の取り立てを行うことを生業とするチンピラヤクザだ。ヨニの父はベトナム戦争帰りで精神に異常を来している。高校生の弟はろくに学校にも行かずに姉に刃向かい暴力を振るい、貧しい一家の生活は荒れている。彼らの母もまた暴力の中で死んだ。


 最初から最後まで暴力が横溢するこの映画には、何も救いがないように見える。ひたすら暴力を振るい、過酷に借金を取り立てるサンフンの現在と、暴力に怯えて育った過去の映像がカットバックする。親愛の情を示すときすら相手の頬をつねったり叩いたりしないといられない、悲しいサンフン。そんなサンフンと同じく、暴力と下品な言葉の応酬のなかで生きているヨニ。貧困と暴力の連鎖のなかで救いようのない荒んだ生活を営む二人が、それでも互いを必要とすることだけは本能の教えで知った。終始一度も笑わないサンフンは、しかし、一度だけ泣く。嗚咽をこらえて、最後はしゃくりあげるようにして泣く。大の男が女子高生の膝の上で泣く場面は、この映画のハイライトだ。思わずもらい泣きをそそるこの場面は、暴力の中にあっても親子の情は憎しみを越えて存在することを嫌と言うほど知らしめる。


 どんなに荒んだ生活でも、どんなに悲惨な生育歴でも、人は生き直すことができる。ある日、サンフンは生き直すことを決意した。暴力からは足を洗う。自分と同じように暴力に怯えて育った甥っ子に優しい目を向けるサンフンは、もう二度と暴力の世界には戻らないと決めた。ヨニのこともかけがいのない友として意識し始めた。しかし、その決意は……


 荒削りな画面作りと見えて実は周到に計算されつくした編集の妙が冴える、初監督作にしてこの完成度。監督が自らの思いの丈をすべてはき出したという、「物語はフィクションでも、描いた感情に1パーセントの嘘もない」という映画。監督・脚本・主演をすべて一人でこなした恐るべき才能に恐懼すると同時に、この人がこの一作で終わってしまわないか心配になるほど、全力投球の作品だ。見終わった後、暫く席を立てない、そんな映画は久しぶりか。

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BREATHLESS
130分、韓国、2008
製作・監督・脚本・編集: ヤン・イクチュン、音楽: ジ・インヴィジブル・フィッシュ
出演: ヤン・イクチュン、キム・コッピ、イ・ファン、チョン・マンシク、ユン・スンフン