吟遊旅人ピピのシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。感謝。

8 1/2

 リメイク作「NINE」が面白そうなので、リメイクを見る前にまずはオリジナルを。フェリーニの最高傑作という評価もある作品だが、他人の頭の中を覗いているような不快感と恥ずかしさを感じる。そして、マルチェロ・マストロヤンニが得も言われぬ魅力的な作品。この人がジョージ・クルーニーに似ているので驚いた。映画監督を主人公に据え、映画製作現場を舞台とするあれやこれやのてんやわんやを描いたという点では後のトリュフォーアメリカの夜http://d.hatena.ne.jp/ginyu/20040701の原型とも言えるが、「アメリカの夜」のわかりやすさと違って、フェリーニの「8 1/2」は安心して観ていられない落ち着きのなさに満ちている。観客の深層にまで届く不安感を与えるという意味ではフェリーニのほうが作品の質が深いのだろうが、どうにも男の欲望と甘えがストレートに現れ過ぎていて、そこが好きになれない点だ。


 この映画はおそらくフェミニストからさんざん批判されたはずだ。その批判をわたしは読んでいないので知らないが、初見のときに「嫌な感じ」を覚えた理由は、この映画で女は徹底的に客体化され、男の道具、男の欲望の対象、男を甘やかせ堕落させるものとしか描かれていないと思ったからだ。しかし再見してみると、このマザコン男の欲望があまりにも戯画的に描かれていて、情けなくもだらしない「世界の名匠」を見るにつけ、グイド=フェリーニ自身の自虐ネタであることがありありとわかった。グイドは自分の分身ではないとフェリーニは主張しているらしいが、そんなことは誰も信じない。マザコン映画監督を自嘲的に描くこの「突き放し方」が、実は計算されたシニカルな笑いであるところが、フェリーニのしたたかさであろう。


 「NINE」を見てから「8 1/2」を再見すると、後者が遙かに深い作品であることがわかる。グイドが行き詰まっているのは単に次の作品のアイデアがでないから、といったわかりやすい理由だけではなさそうだし、全編に亘る、夢だか妄想だか現実だかわからないグイドの話半分のような苦悩も、苦悩に真面目に向き合う態度ではなくどこか半身が異世界に逃げているような、「逃走」系の軽さがある。最後に登場人物が全員揃ってダンスを踊る場面なんてまるで宝塚のレビューか芝居のカーテンコールのようではないか。この「浮かれ」の正体はなんなのだろうか? 女達に囲まれ、幸せそうなグイドのハーレムにしたところで、「男の願望丸出し」のようでいて、実は彼は女達にいたぶられ、悩まされているのだ。女、求めて止まない女たち、しかもなお鬱陶しくも愛しくも煩わしくもうるさくもあり……。求めるものを呼び寄せながら、そのくせ自らが呼び寄せた愛人に時間を取られ手間をとられ、妻には責められ、映画は前に進まずにっちもさっちもいかない。


 ああこの、天国で遊びすぎて疲れ果て地獄で安らぎを得るような、快楽と苦しみのせめぎ合いこそ、これこそが、我等が愛、我等が人生。(DVD)

−−−−−−−−−−−−−
OTTO E MEZZO
140分、イタリア、1963
監督・脚本: フェデリコ・フェリーニ、製作: アンジェロ・リッツォーリ、脚本: トゥリオ・ピネッリ、エンニオ・フライアーノ、ブルネッロ・ロンディ、音楽: ニーノ・ロータ
出演: マルチェロ・マストロヤンニ、アヌーク・エーメ、クラウディア・カルディナーレ、サンドラ・ミーロ、バーバラ・スティール