吟遊旅人ピピのシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。感謝。

9.11 N.Y.同時多発テロ衝撃の真実


 
画面が安物くさいと思っていたら、これはテレビ用にビデオ撮影された映像だったのか。本作は、ドキュメンタリーとは何か、を考えるに格好の材料ではなかろうか。

 

 若手のカメラマン兄弟が、新米消防士の成長ぶりを描くドキュメンタリー番組を制作中に、9.11に遭遇する。カメラはWTCに突っ込む1機目の飛行機の姿を捉えていた。これが世界中でただひとつ「1機目」を撮った映像だという。そして、消防士とともにカメラはWTC内部に入る。そこで彼らは起きている事実がいったい何なのかを知らぬまま、ビルの崩壊現場を撮影し続けることになる……。


 これはドキュメンタリー作家の「僥倖」なのか? 彼らは「世紀の映像を撮れた」ラッキーなカメラマンたちなのか? この映像がなければノーデ兄弟の名は世界に知られることがなかったであろう。では、9.11はアメリカにとっての不幸であってもノーデ兄弟にとっては千載一遇のチャンスだったのだろうか?
 こういう意地の悪い見方をするのはわたしの根性がひねくれているのだろう。「こんな映像があるから9.11陰謀説が後を絶たない」と言う者もいる。


 人がビルの上階から落ちて地面に叩きつけられる、「バシャーン」という音、繰り返されるその音に背筋が凍る。この映画で最も怖かったのがこの音だ。消防士達は、その音を聞く度に「人が落ちている音だ」と気づいて、顔を引きつらせる。不思議なのは、落ちてきた人を誰も「救出」に行かないことだ。危険だから? 「救出」の意味がないから? 回り続けるカメラ、無線で連絡を取り合う消防士たちの声、「人が雨のように降ってくる」!! やがて、指令を待っていた消防士たちは78階を目指して階段を昇り始める。30キロの装備を持って、階段1階上がるのに1分以上かかる。そのカメラに写った消防士たちの何人かが帰らぬ人となった。彼らの最後の姿に胸が痛む。


 わたしたちがテレビ画面やインターネットで見ていた「9.11」の現場が、まさに現場で撮られていた。そのことの衝撃と、そのことの重みをいやというほど感じる映像だ。しかし、だからこそ、ドキュメンタリー作家としてのノーデ兄弟の「腕」はどうなのだろう? 彼らはこの「素材」をどのように編集し、一つの「作品」として完成させたのか? その内容のあまりの衝撃に、彼らの腕の凡庸さが目立ってしまう。2機目の飛行機がビルに突っ込む映像は世界中に生中継された。わたしもその瞬間を見た一人だ。そのとき、多くの人が「映画みたいだ」と感想をもらした。わたしもその一人だ。「現実が映画を超えた」、と。そして今、現場の生々しい映像を見ると、「事実はドキュメンタリーをも超えた」と思う。


 例えば、戦場カメラマンが弾丸の飛び交う「生々しい現場」を写すことがあっても、それは「予期せぬ出来事」ではない。これから戦場を写しに行く、と構えてカメラを持つその姿勢と、「予期せず目の前で起きた大事件」の中で呆然となるカメラマンとでは、後からフィルムを見る側の衝撃も違う。自分たち自身が何を写しているのかよくわかっていないドキュメンタリー作家が廻し続けたカメラは、意図を持って被写体に迫るカメラとは違うだろう。しかし、ドキュメンタリー作家というのは、演出の意図を超える出来事が目の前で起きることを「意図をもって期待しつつ」カメラを回すものかもしれない。「ゆきゆきて、神軍」(http://d.hatena.ne.jp/ginyu/20071230)の原一男監督が目の前で起きるハラハラドキドキの出来事を写し続けたことを思い出す。


 このフィルムは消防士の日常を追うドキュメンタリーなのだから、当然にも火事やガス漏れの現場など、危険に遭遇することは計算尽くだろうし、むしろ、カメラマンたちは火事を待っていた節も伺える。しかし、まっていた事件が「火事」ではなく「9.11」であったとは、カメラマンも消防士達も予想しなかった。火だるまになって階段を駆け下りてきた人を写すことをしなかったカメラマン・ノーデは、報道カメラマンとして失格ではないのか? 人道的配慮や慎ましさが彼をしてカメラを向けさせなかったとしても、それはカメラマンとしては誉められることではなかろう。どんなに悲惨な状況であっても、カメラマンはカメラを廻し続けねばならない。それが彼の仕事なのだ。人がビルから降ってきたなら、その様子を写すのが報道カメラマンの使命だろう。しかし、ノーデ兄弟はそうはしていない。果たしてそれは「正しい」ことなのだろうか?

 

 人が燃えている映像を、ビルから降ってくる映像を、地面に叩きつけられて潰れてしまった映像を、わたしは見たくない。わたしが遺族ならば、いっそう見たくない。しかしカメラマンとしてはどうなのか? わたしには「答」がない。

 二度とないであろう、ドキュメンタリー作家として最高の「幸運」の現場に居合わせたことを、ノーデ兄弟はどのようにとらえていたのだろう。映像を見る限り、彼らはただ呆然としてカメラを回していただけのように見える。そこには「特ダネを撮ってやるぞ」というアグレッシブな姿勢は見られない。



 実をいうと、そういうノーデ兄弟の姿勢にわたしはほっとする。彼らが、「これはすごいぞ」と喜び勇んでカメラを回していたのだとしたら、わたしは彼らに敬意を払うことができなかっただろう。しかし、だからこそ彼らはドキュメンタリー作家として甘かったのではないかと思える。できあがった作品も、9.11の現場だけが迫力があって、ほかはごく普通の作りだ。



 先に、「予期せぬ9.11に遭遇した」という意味のことを書いたが、この当時、わたしの友人のSさんが次のようにあるメーリングリストに投稿したことを思い出す。

 (当時のニュースを報道する記事を紹介して…)
英文ですが、米国および日本のメディアに上ってこない昨日の事件に関する報道です。「ショックを受けたけれども、驚きはしない。ブッシュ政権がやっていることからすれば、いつかはこのようなことが起きるのではないかと心配していた」と、考えていた米国人も多数いるようです。


小生が留学中、東海岸でリサーチをするときは、中東情勢はいつも心に留めていました(その代わり、連邦政治を気にせずに行って、共和党とクリントン政権との対立によって連邦政府予算の執行がストップして、議会図書館や公文書館、美術館がみんな閉鎖という憂き目に会ったことがありますが)。貿易センタービルに遊びに行ったときは、不十分とはいえオスロ合意が達成されたときでした。


 NYに住む限り、テロ攻撃から自由だと思うべきではない。中東情勢に思いを馳せていなかったドキュメンタリー作家はジャーナリストとしては失格であろう。もっとも、彼らは元々ジャーナリストではなかったのかもしれないが。



 と、ここまで長々と書いてきて、この作品が「凡庸」と書いたことが間違っているような気がしてきた。「凡庸」と思ったのは、9.11の背景に迫る分析ができていないからだ。しかし、この作品に限っていえば、分析など必要ない。WTCビルが崩壊する瞬間の恐ろしい地鳴り、全身灰まみれになって逃げまどう人々。それらが事件の起きたときに写されていた、そのことの衝撃と重さだけで十分なのだ。そして、現場を誰よりもよく体験した消防士たちの証言があれば、それでいい。そして、その証言のなかに、「犯人を殺してやりたい」という言葉があったことがわたしの心を重くする。その気持ちはとてもよく解るが、解るだけに暗い気持ちになる。こうして暴力の連鎖は止まらないのか…(レンタルDVD)

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9/11
130分、アメリカ/フランス、2002年
監督: ジュール・ノーデ、ゲデオン・ノーデ、ジェームズ・ハンロン、製作総指揮: スーザン・ツィリンスキーほか