吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)

 宮台真司が特別出演しているというけれど、どこに出ていたのかさっぱりわからなかった。


 連合赤軍事件を描いた二つの映画、「光の雨」と「突入せよ!「あさま山荘」事件」のどちらもに満足できない若松孝二が作った映画。実録、というだけあって、リアリズムを追求したした作品だ。「光の雨」が劇中劇というメタ構造を持っていたために、凄惨なリンチの場面もどこかオブラートにつつんだような印象を受けて和らげられていたが、本作はまったくそのようなことがなく、まるでその場に居合わせたかのような緊迫感と痛みを観客に感じさせる。


 巻頭の、1960年から始まる左翼学生運動の回顧シーンには少々うんざりした。知っていることばかりを単調なナレーションで繰り返されても退屈なだけだ。ちょっと眠くなってきたところで、回顧シーンが終わり、いつしか、「実録」の場面に入っていく。ここからはもう、目が離せない。山岳ベース内での出来事、「総括」という名のリンチがどのように始まったのか、その状況は観客に直に伝わってくる。描かれている内容は関係者の手記にあった通りなので、わたしにとっては知らないことは何も描かれていない。


 にもかかわらず、本で読むよりもずっとリアルにその痛みと凄惨さ、残酷さが迫ってくる。これが映像の力というものだろうか。唯一、本のほうが勝っていたのは、「臭い」に関する叙述だけだ。殴られ捕縛された者が放置されたテントの中は、涙と血と垂れ流した糞尿の臭いが混じってすさまじいことになっていたらしいが、それが映像ではわからない。もっとも、わからなくて何よりだ。
 遠山美枝子の壮絶な死に様といい、加藤三兄弟の長男が無念の死を死んだ様子といい、「にいちゃん、にいちゃん」と弟が冷たくなった兄に小声をかけて揺り動かし、「こんなの革命じゃない」と泣き崩れる場面など、目を背けたくなるような、そしてまた涙をそそる場面が、これでもか、と続く。


 そのリアルな総括場面の演出もさることながら、役者の演技がすさまじい。永田洋子役の並木愛枝の陰険さと冷酷さにはぞっとする。あまりにも演技が上手いので恐れ入った。森恒夫がなぜあのように冷酷無比に仲間をリンチ殺人できたのか、その理由の一端が分かる場面がある。彼が、かつて東大安田講堂の攻防戦から敵前逃亡したという「前科」を塩見孝也たちから赦される場面がそれだ。これが森恒夫のトラウマになったとも言われている。


 だが、上記のほんのわずかな一場面を除けば、連赤の同志殺しついて、いくら「実録」場面を見ても、さっぱり理解できない。とりわけ、山岳ベースでは冷酷無比な殺人鬼の集まりのようであった連合赤軍の兵士たちが、浅間山荘に立てこもったときには実に「紳士的」に振る舞い、山荘管理人の主婦を下にも置かない丁重な扱いをしてることが不可解なのだ。そこまで対比的に彼らを描く若松の意図がよくわからない。もちろんこれが事実だったのだろうが、であるならなおのこと、なぜ同志に対してはヤクザのような態度をとり、無関係な民間人には優しかったのか? もともと、そのような優しく気高い資質を持った若者であったはずの彼らが、なぜ無慈悲に同志を殺すことができたのだろう? その肝心な部分の解明ができていない。


 結局のところ、若松孝二にしても、「光の雨」の高橋伴明監督と同じく、連合赤軍事件については理解できていないのだろう。しかし、理解できなくても、若松は「理解できないけれど、なんとか理解したい」という誠実さをとことん貫いた点で高橋よりも評価できる。高橋の中途半端な甘さがこの映画にはない。

 
 浅間山荘で人質になった若い主婦は、警察に救出された後、過激派が親切で優しかったと警察に証言したそうだが、その発言はただちにもみ消されたということをどこかで読んだ覚えがある。この映画ではその主婦にはほとんど台詞がなく、ひたすら怯えて耐えている姿が映し出されている。彼女の本名は映画では明らかにされていないし、人質とはいえ、気高く立派な態度を取っている。この辺りの若松監督の配慮は万全だ。

 
 それに比べて、やはり森恒夫と永田洋子の残忍さは別格の扱いで描かれている。森恒夫が生硬な言葉で革命情勢を語る場面を偶然見ていた高校生のY太郎が、「あの人、日本語しゃべってるのん?」と呆れていたように、今聞いても彼らの「理論」は意味不明だ。というより、言葉の意味が頭の中を素通りしてしまう。だが当時、あのような難解な文言をいくつも並べ立てる人間こそが左翼の中では尊敬された。その基本構造は実は今でも変わっていない。いち早く海外の難解な文献を読み解く学者こそが偉いと思われる風土がこの国の近代の姿である限り、語っている内容よりもその語り方に重きを置く風潮はなくならないだろう。古くは福本イズムに始まり、連合赤軍の「総括」を経て、80年代のニューアカデミズムにまでその痕跡は続く。


 同じく、森恒夫たちを見て、Yは言った。「あの連中、オウム真理教と似てるなぁ」。この辺りの思想的分析についてはいくつかの論文を読んでも、やはり納得できないものが残る。結局のところ、わからないのだ。彼らの思考が近代というシステムの鬼子だとして、その鬼子の背中を押したのは誰なのか? なぜ、山岳ベースで誰一人として「こんなことは間違っている、やめよう」と言えなかったのか? なぜ全員で森と永田に反抗しなかったのか? その問いは、スターリニズムになぜ誰も抵抗しなかったのか、という問いと同質だ。
 

 この映画では、連合赤軍のメンバーは全員実名で登場する。殺された一人一人の年齢と名前が字幕で流されるとき、わたしたちは無念の若者の死を、そのかけがえのない青春を想う。若松が痛哭の念で執着した作品であることがひしひしと伝わってくる。わからないながらも、そのわからなさから逃げなかった若松孝二という監督の、もはや最晩年の時期に達した作品として、心に残る力作となった。この映画を映画として消費する甘さを若松は赦さない。(レンタルDVD)


※「光の雨」のレビューはhttp://d.hatena.ne.jp/ginyu/20020614
※「突入せよ!「あさま山荘」事件」のレビューはhttp://d.hatena.ne.jp/ginyu/20030510


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190分、日本、2007年
製作・監督: 若松孝二、脚本: 若松孝二、掛川正幸、大友麻子、音楽: ジム・オルーク
出演: 坂井真紀、ARATA、並木愛枝、地曵豪、伴杏里、大西信満、中泉英雄