吟遊旅人ピピのシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。感謝。

シリアの花嫁

 シリアのゴラン高原をイスラエルが占拠したのは1967年。それ以来、この地に住むイスラム少数派ドゥルーズ派の人々は生活圏を国境線によって分断されてしまった。本作は、その国境<ボーダー>の周辺で起きる一組の結婚式の様子を描いて、わたしたちにボーダーの意味を問う。 

 国境線を越えれば二度と家族に会えない。そんな決意をしてまで、なぜ一度も会ったことのない花婿に嫁ぐのか? ここが理解できないと、この映画の評価がかなり変わってしまう。ドゥルーズ派の人々にとって、親戚と結婚するのは当たり前のことであり、それが最も安心安全な結婚だという。だが、彼らの居住地に武力によって国境線が引かれ、民族が分断された。家族がばらばらになって、二度と会えないという事態が起きている、これは朝鮮半島の38度線で今も続いている悲劇と同じだ。

 本作は、イスラエル側の花嫁がシリア側の花婿へと嫁ごうとするその一日を追った物語。国境の中立地帯(No man's land)をはさんで、足止めされた花嫁と花嫁を待つ花婿が互いを求めて叫び合う姿は悲しい。本当ならば花嫁は国境を越えて嫁いでいくはずだったのに、越境手続きが変わったためにそれがままならなくなった。国家の威信をかけて花嫁を通そうとしないシリア側も意固地だが、イスラエル側もまた同じ。間に立った赤十字のフランス人女性が何度も国境線を行ったり来たりするが、事態は前に進まない。わたしも見ていてイライラじりじりさせられる。

 今目の前にいる一組のカップルの幸せよりも国家の威信や建前が大事という発想は、イスラエル側もシリア側も同じ。イスラム国家であろうとユダヤ国家であろうと、国家である限りは法を遵守し法権力を行使することが金科玉条となる。

 花嫁が「この結婚でいいのかしら」と迷い悩む場面は、わたしにも素直に納得できる。何しろ相手はテレビスターであり、実際には会ったことなどない男だ。親戚とはいえ、この結婚がうまくいくかどうかの保証はない。一度国境を越えてシリア国籍を持てば、もうイスラエルには戻れないのだ。結婚に失敗しても帰る家はない。そこまでして無理に結婚する必要もないだろうに、とわたしなどはつい考えてしまうのだが、そうは思わないのがドゥルーズ派の人々の伝統であり文化であり風習である。この結婚に疑義を感じるわたしの感覚が既にして西洋近代の個人主義の考えなのだ。結婚は個人と個人の合意にのみ基づいて行われるべきもの。そういう価値観を是として生きている限り、この親族婚には疑問符しかつかない。こういう作品を見ると、わたしにとっての他者はいろんなところに存在していると実感する。

 しかし、最後に花嫁がとった行動には思わず快哉を叫んでしまう。自らの意志で、自らの選択で、自分の足で一歩を踏み出す花嫁の勇気ある決然とした行動には思わず胸すく思いがする。男女に関係なく、自分の意志で未来を切り開く責任感と自立心を持った人にはわたしは共感を覚えるのだ。女が(男も)自分の意志で自らの未来を切り開こうとする姿には素直に感動するし、そうでなければならない、と思う。だからこそ、このラストシーンには希望の光が見えると同時に、一瞬先の闇にもまた思いが馳せる。花嫁の未来は果たしてあるのか?

 たった一組のカップルが結婚するというそのことが命がけになる、この事態こそが異様なのだ。このような世界をわたしたちが作ってしまったのはなぜなのだろう? 近い将来に、わたしたちは異文化への敵愾心や国家の威信よりも大事なものへ思いを馳せることができる、そんな社会を築くことができるのだろうか? 希望と絶望がないまぜになったこのラストシーンはわたしたちにさまざまなことを語りかけている。

 テーマの重苦しさ、生真面目さにも拘わらず、映画はユーモアを忘れない。したたかで浮気性の男や、小心者の役人、国境付近の愉快な人々など、息抜き的な面白さがこの映画にパワーを与えている。

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シリアの花嫁
THE SYRIAN BRIDE
イスラエル/フランス/ドイツ 、2004年、上映時間 97分
監督: エラン・リクリス、製作: ベティーナ・ブロケンパーほか、脚本: スハ・アラフ、エラン・リクリス
出演: ヒアム・アッバス、マクラム・J・フーリ、クララ・フーリ、アシュラフ・バルフム、ジュリー=アンヌ・ロス、ウーリ・ガヴリエル