吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

アウェイ・フロム・ハー 君を想う

 これは痛い。リアルすぎて「感動を呼ぶ物語」とは言い難い。しかしこれは究極の自己チュー男の愛を描いた、そういう意味ではもっともリアルに愛の残酷を描ききった感動作と言える。

 ジュリー・クリスティー、なんという美しいおばあさんでしょう。こんなにいつまでも美しく上品な妻なら、男は自慢でたまらないだろう。夫グラントが妻のフィオーナに執着する気持ちがよくわかる。いくつになっても品よく美しい妻、彼にとって妻は永遠にそのようであらねばならなかったのに、その妻が壊れていく。かつて美しい教え子たちと次々に恋に落ちた女たらしの大学教授は、その罰のように今、妻の病に向き合わねばならないのか? 記憶を失っていく妻の口から、夫のかつての浮気相手の名前が出る。なんで今頃そんなことを…。戸惑いながら、「自分への罰として妻がアルツハイマーの振りをしているだけかもしれない」という疑念すらわく。だが、妻の病は本物だったのだ。完全にぼけてしまう前に、自ら養護施設に入ることを選択したフィオーナに、夫グラントは30日間面会させてもらえなかった。そしてなんと、30日ぶりに会った妻はすっかり夫のことを忘れてしまっていたのだ。しかも、同じ入所者の世話をかいがいしく焼き、まるで二人は恋人どうしのようでさえある。愕然とするグラント。

 自分の妻(夫)がアルツハイマーになるという事態をどのように人は受け入れるのだろう? 病は徐々に、だが確実に進行する。その様子をただ見ているしかないのか。自宅で介護することを早々に諦めて施設に入所することを選んだこの夫婦の場合、妻は入所後に夫をすっかり忘れ、夫は妻の「新しい恋」を呆然と見つめ、しかしその恋が病気の進行を止められるかもしれないという根拠のない希望にすがる。妻のためなら他人を巻き込み、利用することも辞さない。しかもそのことに何の良心のとがめも感じていないのだ。これはとても残酷な利己主義だ。愛ゆえの利己主義は、崇高な夫婦愛とさえ一瞬見間違う。妻への執着も結局は自己愛に過ぎない。老いて先に自分自身をすら忘れていく妻に、夫は置いてきぼりを食ったような寂しさを覚えるだろう。その茫然自失ぶりが淡々と描かれる。

 記憶をなくしていけばもう、その人ではなくなるのだろうか。相手が惚けてしまえばもう愛せないのか? 愛する人が壊れていく、その事実を受け止める悲しさと、なんとかその病気や症状を認めたくないと焦り絶望的にじたばたする愚かさをわたしたちは他人事のように受け止めることはできない。いつかそのような事態に直面する可能性はあるのだ。

 アルツハイマー病を描いた作品では、いつも病人の心理は観客には伝わらない。本人の絶望や悲しさはほとんど理解できないが、介護する側の人間の悲哀はいやというほど伝わってくる。介護する側の人間とはすなわち取り残された人のことだ。一人、忘却の世界へと旅立つ妻をただ呆然と見送るしかない夫は、疎外された存在である。相手が抜け殻になろうとも愛することを止められない、その執着の正体はいったい何なのだろう? それは「愛着」ではなく「執着」だ。「かつて愛し合った美しい二人」という自己像への執着であり、老いて残されることへの恐怖だろう。その恐怖と疲労から逃れるため、人はさまざまに逸脱を経験する。

 面白いことに、妻を介護する夫は妻に執着するけれど、夫を介護する妻は夫に執着しない。このへんの割り切り方は女のほうがよっぽどさばさばしているように見える。つまりは、夫には妻を介護する立場に立つ覚悟がなく、妻には夫の介護をせねばならないという諦念が張り付いているということだろう。夫は妻にいつまでも美しく自分に尽くし自分を待っていてほしいと(密かに)望んでいるからこそ、健康な妻の姿に執着せざるをえない。男というものの我執のなれの果てだ。しかし、わたし自身がこのようにグラントを冷酷に批判できるとも思わない。グラントは我が姿であり、オリンピア・デュカキスが演じた「夫の介護に疲れて逸脱を望む妻」もまた我が姿であろう。

 ラストシーンはまた残酷な場面だ。美しい愛の抱擁はつかの間のうたかたに過ぎない。誰もが哀れを引きずるこの物語の結末は、サラ・ポーリー監督が27歳という若さで人生の酷薄さを見通してしまったことを表して感慨深い。(レンタルDVD)

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アウェイ・フロム・ハー 君を想う
AWAY FROM HER
カナダ、2006年、上映時間 110分
監督・脚本: サラ・ポーリー、製作: ジェニファー・ワイスほか、製作総指揮: アトム・エゴヤン、原作: アリス・マンロー『クマが山を越えてきた』、音楽: ジョナサン・ゴールドスミス
出演: ジュリー・クリスティ、ゴードン・ピンセント、オリンピア・デュカキス、
マイケル・マーフィ、クリステン・トムソン、ウェンディ・クルーソン、アルバータ・ワトソン