吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

ベンジャミン・バトン/数奇な人生

 なんという上品で悲しい映画だろう。愛し合う二人は時を止めたいと願う。しかしその時が逆流していけば? 二人の時間は離れる一方。女は老いていき、男は若返っていく。この悲劇は、単なる猟奇的な物語の発想を超えて、愛のかけがえのなさとその本質を鋭く問う秀作。


 「わたしが老けて皺だらけになっても愛せる?」
 「ぼくが子どもになっておしっこを漏らしても愛せる?」

 

 1918年ニューオーリンズ第一次世界大戦が終わり先勝ムードにわく夜にベンジャミン・バトンは生まれた。裕福な家庭の一人息子だったはずのベンジャミンだが、母は難産のため死亡、父は異形の赤ん坊におそれをなして子どもに名前もつけずに養老院の玄関先に棄ててしまう。拾われた赤ん坊はベンジャミンと名付けられ、黒人のカップルに慈しみ育てられた。生まれながらに80歳の老人だと医者に診立てられ、まもなく死ぬだろうと宣告を受けたが、彼はすくすくと成長する、一年また一年と若返りながら。やがて少年ベンジャミンはデイジーという少女と出会う。老人のように見えるベンジャミンが実は子どもであることをデイジーは一目で見抜くが、このとき二人が運命の恋人であることをまだ誰も知らない。ベンジャミンは外の世界へと旅立つ。そう、その時が来たのだ。見かけは60代の初老でも心は青春のベンジャミン、彼は船乗りとなって世界を旅し、ロシアで外交官夫人と恋に落ちる。第二次世界大戦に遭遇して船は沈没、九死に一生を得る。波瀾万丈のベンジャミンの冒険はどこへ向かうのだろう……

 物語は、ハリケーンが近づくニューオーリンズの病室で瀕死の床にある老女が語る回想として語られる。しかし、語り手は一人ではない。老女は娘にとある人物の日記を手渡し、「今まで読むのが怖かったの。今、読んで聞かせて頂戴」という。それはベンジャミンの日記と手紙の束だった。ベンジャミンが語る、数奇な人生の日々。初めて知る事実も多い、と感慨深げに苦しい息をしているのは彼の運命の恋人デイジーの老いた姿なのだ。ベンジャミンの独白とデイジーの回想によって紡がれる数奇な愛の物語は、激動の20世紀の歴史そのままに人の運命のはかなさと時のかけがえのなさを教える。

 ひとは若返ることができれば、と思うことは何度でもあるだろう。戦争で一人息子を亡くした時計職人は時間を逆戻りさせたいと切望し、逆回転する時計を作った。その悲しい思いをわたしたちは理解できる。けれど、愛する人の死も受け入れて生きていくのが人生なのだ。一つまた一つと若返ることの不思議は、一つまた一つ歳をとることの不思議となんら変わるところはない。一度きりの人生をただその時その時を息をつめ目をこらして生きていくしかないのだ。老いた赤ん坊として養老院で育ったことがベンジャミンの人生に大きな影響を与えている。養老院はいつでも人が入れ替わるところだ。老人たちはすぐに死に、また新しい老人がやってくる。その繰り返しをベンジャミンは毎日目にしながら育ったのだ。自身はどんどん若返りながら。 

 ベンジャミンとデイジーの外見年齢がほぼ同じぐらいになったとき、やっと二人は結ばれる。その時の二人の弾けた美しさはこの映画のハイライトシーンだ。ときはまさにビートルズがデビューして、若者の叛乱の季節がやってくる60年代。二人は人生の半ばにさしかかった中年カップルのはずなのに今が青春の盛りとばかりに美しく輝いている。これまで、どちらかが若すぎても老けすぎても二人の間には距離ができてしまった。若すぎるデイジーは意地を張り老いた落ち着きを見せるベンジャミンは慎重になりすぎる。しかし、ふたりが様々な人生経験を経たとき、自然に求め合い出会った二人は再び激しい恋に落ちるのだ。恋にはその時期がある。今でなければならないというその出会いの時期が。若い頃に出会っても恋に落ちなかったであろう二人が、分別盛りに若者のような恋に落ちることだってあるのだ。

 だが、幸せは長くは続かない。やがて時がまた二人を引き離してしまうことをベンジャミンは知っていた…… 

 80歳で生まれて0歳で死んでいった数奇な運命のベンジャミンの人生を見ていると、人は最後には誰もが赤ん坊に還っていくのだとしみじみ思う。ベンジャミンとデイジーとの生涯に亘る愛も、年齢を超えてはぐくまれる。何度別れても何度離れてもまた呼び合う魂。ベンジャミンの最期に安らぎを与える美しい場面には涙せずにはいられない。最後は溢れる涙を止めることも出来なかった。人はいつでも完璧な存在ではない。いつも何かが欠けている。いつも何か間違いを犯している。それでも愛し愛される資格は誰にでもあるのだ。この静かで美しい映画はそのことを教えてくれる。

 80歳から0歳まですべて一人で演じたという驚異のブラッド・ピッドには脱帽するしかない。演技力もさることながら、その特殊メイクには驚嘆の上にも驚嘆。フィンチャー監督の演出も品のある抑えたものだが、その演出に応えるケイト・ブランシェットの上品な美しさはこの上なく輝いている。登場人物の誰もが愛に満ち、ベンジャミンを棄てた父親でさえ愛に苦しむ。誰もが誰かを深く愛しながら、離れていくこと、別れていくことは避けられない。その当たり前の悲しい事実を改めてしみじみとこのような作品でわたしたちに示してくれたこの映画の関係者すべてに感謝したい。アカデミー賞受賞を期待しています。

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ベンジャミン・バトン 数奇な人生
THE CURIOUS CASE OF BENJAMIN BUTTON
アメリカ、2008年、上映時間 167分
監督: デヴィッド・フィンチャー、製作: キャスリーン・ケネディほか、原作: F・スコット・フィッツジェラルド、脚本: エリック・ロス、音楽: アレクサンドル・デスプラ
出演: ブラッド・ピットケイト・ブランシェットティルダ・スウィントンジェイソン・フレミングイライアス・コティーズジュリア・オーモンドエル・ファニング、タラジ・P・ヘンソン、フォーン・A・チェンバーズ