吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

シークレット・サンシャイン

 思想の深さに思わず感嘆する。<赦し>という思想が持つアポリアをこれほど見事に描くとは。しかし、映画全体の緊張感はベルイマン作品にはかなわない。

 夫を亡くしたばかりの32歳のシネは、小学生の息子を連れて夫の郷里・密陽(ミリャン=シークレット・サンシャイン)に引っ越してきた。まずは巻頭のシーンで、密陽に向かうシネが道に迷う場面からして彼女の他力本願で見栄っ張り、わがままな正確が描かれる。ピアノ教室を開いたシネは息子と二人それなりに楽しそうに暮らしているが、その生活がある日突然崩れ去る。息子が誘拐され殺されてしまったのだ。シネの虚栄心がもたらした結果とはいえ、不幸のどん底に突き落とされた彼女は立ち直るために宗教にすがることになる……

 誘拐殺人事件という、日常を突き破る事件が起きるまでが40分、実に長い。シネの日常生活を淡々とかつ丁寧に描き、彼女を巡る人間関係をイ・チャンドン監督はさりげなくかつ観察眼鋭く描いていく。シネという女性の長所や欠点も観客にはおのずと見えてくる。

 シネに好意を寄せる自動車修理工場の社長キムがこの映画の道化役。ソン・ガンホがいつものひょうひょうとした味わいをみせて好演してはいるが、実はこの彼の存在が映画全体をコミカルにして、重い物語の雰囲気と緊迫感に穴を開けてしまう。この演出がいいという人もいるだろうが、わたしにはどうにもわずらわしかった。せっかくのテーマに相応しい重厚な演出をしてほしいところ。

 シネを演じたチョン・ドヨンはほとんど化粧気のない素顔をさらして、どこにでもいる普通の若い母親を見事に演じた。とても女優とは思えないごく普通の女性の表情が実に豊かに変化(へんげ)する。さすがにスタイルがいいので、そこが女優らしさの見えるところだろうが、イ・チャンドンは主演女優を美しく撮らないという「暴挙」に訴えることにより、この映画にリアリティを与えた。

 ソン・ガンホ演じるキム社長のあの愚直なまでの一方的な愛はいったい何を意味するのだろうか。神が人を救えなくても人は人を救えるということを言いたいためにイ・チャンドンが配した地上の天使なのだろうか。

 罰するという行為が権力行使であることは明らかだが、「赦し」もまた権力であったことをこの映画で気づかされた。犯人を赦すことができるのは被害者だけだ。被害者/遺族だけが犯人を赦せる特権的な位置にいる。あるいはまた犯人を憎む位置を独占できる。その「権利」を奪うのが国家による死刑執行だ。遺族のためにあったはずの「仇討ち」権を近代国家は取り上げた。では<赦し>は? 被害者/遺族よりも先に神が赦しを与えてしまえば、赦しに向かう被害者の崇高な感情は行き場をなくしてしまうではないか!

 国家も宗教も人から「憎しみ」「昇華」といった感情を奪ってシステムの中に組み込んでしまうのではないのか?

 イ・チャンドンがキリスト教に対してどこまで懐疑的なのかははっきりとはわからないが、この映画に登場する祈祷会などの描き方はどこか胡散臭い。シネが信仰への懐疑に陥り絶望的な気分になって精神を病んでいく様子はまさに鬼気迫るものがあり、チョン・ドヨンの見事な演技に目が離せない。しかし、最後に描いた一条の暖かな光は、宗教の救いへの期待をどこかに残したままだ。イ・チャンドンは信仰への全否定を描いたわけではない。しかし彼は信仰のもっとも深いアポリアを描いたことにより、わたしたちに、この世界を支える理性や論理の危うさを呈示した。

 ラストシーンに漂うものは希望へのかすかな光だろうか、それともこれからも神を憎み人を憎んで生きていくシネの宿業への悲哀だろうか。汚い地面を這うようにシネの髪が風に吹き寄せられる。そこに明るい日の光がそっと差す。これはやはり一条の希望の光と見るべきだろう。その救いの神はキム社長の愚直な愛かもしれない。しかし、シネが本当に光を見いだすのはそれほどたやすいことではない。わたしたちは<赦し>を簡単に口にすることを許されていないのだ。(レンタルDVD)

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シークレット・サンシャイン
SECRET SUNSHINE 密陽
韓国、2007年、上映時間 142分
製作・監督・脚本: イ・チャンドン、原作: イ・チョンジュン、音楽: クリスチャン・バッソ
出演: チョン・ドヨンソン・ガンホ、チョ・ヨンジン、キム・ヨンジェ、ソン・ジョンヨプ、ソン・ミリム



Unknown (パープルローズ)
2009-02-09 23:08:22
見てくださったんですね!
私もソン・ガンホ演じる道化役キムの存在がどういう意味があるのか、納得しかねていますが、全体的にはとても見ごたえのある作品だと思いました。
キム社長の存在 (ピピ)
2009-02-09 23:43:22
 あの社長がいかにも緊張感をそいでしまうのですよ。暗い話に耐えられない観客のためにあのようなユーモアをまぶしたのかもしれませんが、せっかくの重厚で知的なテーマに瑕疵を作ったように思いました。

 パープルローズさんのお奨めなので、ぜひ見なくてはと思っていた作品です。いつもいい作品を薦めてくださってありがとうございます! 次は「アウェイ・フロム・ハー」を楽しみにしています。アウェイ・フロム・ハー (パープルローズ)
2009-02-10 08:38:28
「アウェイ・フロム・ハー」はdiscasのレビューをみるとなんだか評判よくないので、私の見方が悪かったのかなとちょっと落ち込んでます。「2008年私のベスト1」なんて書いてしまったのに。英語字幕でみたのがいけなかったのかな。期待はずれだったらごめんなさいね。ついに (ピピ)
2009-02-12 00:52:38
「アウェイ・フロム・ハー 」を見ました! これは痛い映画でした。すごくリアルで。感想はまた後日、アップします。その前に、「ゴーン・ベイビー・ゴーン」をアップします。これまたパープルローズさんお奨め作でしたね、傑作だと思います。